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sazanamiの物語

恋愛小説を書いています。 創作表現上の理由から、18才未満の方は読まないで下さい。 恋愛小説R-18

近男 -Kindan- (R-18) 改稿版 8 別離の始まり(46~57話)

Posted by 碧井 漪 on  

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小説15禁・18禁(性描写あり)



「輝美がお父さんに似てるのは、見た目じゃなくて中身。頭のいい所とか、弁が立つ所とか、おじいちゃんと話してると、時々輝美と話してるんじゃないかと錯覚する位だよ。俺の事、大好きだって、傍に居ていいって、あれ…甥としてじゃなくて、男としてだって言ってくれない?」

「……」

「もういい加減、俺と結婚してもいいって言ってよ。輝美のパンツ洗っても平気な男って、俺だけだよね?それで十分じゃん?輝美の結婚してもいい男の条件」

「パンツって、それは…」

「例えばだけど、俺が今、事故に遭って半身不随になったとする」

「縁起でもない事言わないで!」

「寝たきりで、介護が必要になったら、輝美はどうする?」

「どうするも何も私には──」

流星の言う通り、決められない。その権限がない。母親の秋子さんが決める事。ただ、仮にそうなったとしても、秋子さんは流星のケアを出来ないかもしれない。


「俺がお荷物になったら、おふくろみたいにほっとく?だけどもし、俺がここで暮らしたいとか言ったらどうする?」

「あなたが暮らしにくいでしょう。ここは10階だし、完全バリアフリーでもないし」

「普通は嫌だよね。甥の介護なんてさ。輝美もそうだよね?俺の世話とかしたくないよね?」

「私なら大丈夫よ。だってこの先ずっと一人で暮らすつもりだったから。私が生きている限りは、流星をほっといたりしないから大丈夫」

「輝美ならそう言うと思った。俺を産んだおふくろより母性強いよね。だから惚れたんだ。俺をちゃんと愛してくれる人。俺も輝美の事、愛してる。けどそれは母親としてじゃなく、唯一愛したい女として愛してるんだ。俺は、輝美がこの世からいなくなったら狂うだろうと思ってる」

「流星。私とあなたは母親と息子みたいな感じなのよ。私を結婚する相手だと思い込むのは間違っているわ」

「母親と息子であんなコトする?」

「そ、それは…申し訳ない事をしてしまったと思ってるわ」

「俺の童貞奪った事、一生かけて償って」

「ええ、だから…ここを実家、私を母親だと思って甘えていいから──」

「輝美は俺を男として見てないけど、俺はずっと輝美を女として見てた。ここを出ていた間だって、ずっと輝美のことを想ってた。万が一、介護が必要になったら俺が輝美の世話をするって位に」


そんな…流星、そこまで私の事を考えていたの?嬉しくない訳じゃない──だけど怖い。私はあなたにそうまで言わせる女に値しない気がするから。


「もうやめて…これ以上、何を言われても私は、あなたの気持ちには応えられない」

「愛してる。多分」


"多分"それを流星の口から聞かされた輝美は、ホッとしたような、がっかりしたような気持ちになった。


「…多分でしょう?絶対ではないわ」

「"多分"世界の中で一番愛してるって、"絶対"的な自信を持ってる。これでいい?」

「勝手にして。私はあなたを…」愛さない…輝美は、その言葉を言えずに口を噤んだ。

「あなたを、何?」

「何でもないわ」

「はっきり言えば?愛してないって。男としては、一生愛せないって」

「そんな事ないわ!」

「絶対?」

「ええ、絶対」

「絶対なんてないと言ってた輝美が、俺を愛してない事は絶対ないって、これ、喜んでもいいの?」

「……」

「輝美に愛されるようにもっと努力する。だから、もう一度、俺を男として見られるか考えてみて」


私があなたを突き離せないのをわかっていてそう訊くの?


「ずるい…」


それ以上言葉を重ねられなくなった私は、流星に背を向け、唇を噛むしか出来なかった。私から、どんな言葉を返したらいいのか、全く考え付かない。向けた背中が、流星の胸に包まれた。


「……」


ぴたりとくっつく肌と肌。流星は黙ったまま、私を背後から抱き締めていた。近くても、触れてはいけない関係だったのに、私が壊したせいで──苦しめてごめんなさい。


でも、わかって──私はあなたを大切に思う、だからこそ、結婚出来ない…この気持ちが、あなたに伝わりますように。


その時、私の体の前で、流星の腕が交差した。逞しい腕にギュッと力を籠められ、私の背中に当たる彼の硬い胸板を心地良いと感じた。


ドクン、ドクン、ドクン、ドクン…このまま、時が止まればいいのに。


私のものなのか彼のものなのかわからない鼓動が、熱を持ち始める体のあちこちで鳴り響いていると感じる。私を抱き締める両腕にキュッと力を込める度、私の胸の奥もキュッと締め付けられる。


例えばもしも、あなたが私より、うんと年下ではなくて、そして甥という立場でもなかったのなら、伯母とはいえ、血の繋がりのない私は、あなたのプロポーズを受けても良かったでしょう。ここであなたと暮らして、子どもを産んで、共に齢を取って、お互いの介護の話をするようになったかもしれない。


だけど…実現不可能なこともあるのよ。法を犯していないとかそういう事ではなくて、家族の気持ちというのは簡単に変えられないの。父、母、弟、そして流星のお母さん…家族との縁を切れない。私の決断一つで、みんなを悲しませてしまう。


愛だけで結婚は出来ないの。ううん、誰かを傷付ける愛なんて愛じゃない。


それに私は、この想いの種類が男女の愛だと断定出来ない。流星も言っていたように、”愛”というより”母性”だと思う。流星が私を想う気持ちも、秋子さんへ向ける事が出来なかった母への思慕よ。


だから…この感情はお互いに、“愛”ではない──そうするしか、ないの。


輝美がそこまで思いを巡らせた時「もういい、わかった。俺が間違ってたんだろ?輝美が正しいよ」低い声を絞り出した流星が、輝美を抱き締めていた腕をスッと離した。


突然手を離した流星を振り返るのを輝美が躊躇っていると、キシキシッ…ベッドから降りた流星の足音が遠ざかり、キイィ、バタン、部屋のドアが開くとすぐに閉められた。


輝美は、この部屋に独りになってしまった事を知らせる静寂を、耳の奥に感じた。


『もういい、わかった』って、どういう意味?


どくんどくん…嫌な胸騒ぎがする。急に冷たくなって、離れて行った流星。


輝美は二年前の事を思い出して怖くなった。


私が結婚を拒み続けたから…流星は、再び出て行くつもりかもしれない。


一緒に暮らそうと決めたばかりなのに──私が怒らせてしまったから。


あなたの言っている事はわかるわ。私も同じ気持ち。でも受け入れられないから、あなたの気持ちを無視し続けた。そうされたら誰だっていい気はしない。


だけど私は、どう答えれば良かったの?


──ちょっと待って。“良かった”って、誰に対して?


私が流星の結婚を受け入れない事は、第一に世間体──流星の言う通り、秋子さんの事を考えてしまうから。それ以外の理由は…ないわ。


齢が離れ過ぎているという懼(おそ)れは、今はない。


ずっと二人で暮らしたい…杞憂を上回る期待に胸がときめいている。結婚出来なくても、ずっと一緒に居られたら、それだけでいい──


コチコチコチコチコチ……


流星、どこへ行ったのかしら?10分近く経っても、まだ戻って来ない。


さっきの流星の様子に不安を覚えた輝美は、素肌にガウンを羽織り、ベッドルームを出た。灯かりの点いたバスルームから水音がする。輝美はホッと息を吐いた。


シャワーを浴びていたのね。


輝美がバスルームの前で流星が出て来るのを少しの間待っていると、ザーッという水音が消え、キイッとバスルームの扉が開いた。輝美が差し出したバスタオルを受け取った流星は「ありがと。オバさんも入って来たら?」と輝美に向かって言った。


オバさん?どうして流星、呼び方を変えたのかしら?


違和感が輝美の心をチクリと刺した。


「あ、うん…私も、シャワー浴びて来るわね」

「そうそう、それと俺、これからリビングで寝るから。いい?」

「え…どうして?」

「どうしてって、輝美が言ったんじゃん。伯母と甥だって。もう、あんなコトしないから、安心して。同じベッドにも入らない。輝美に認めて貰える結婚相手も探してみる。それと、後で言うつもりだったんだけど、明後日の月曜から、契約の仕事も決まったから」

「そ、そう…仕事、決まったの。おめでとう」

「しばらくはここから通う。職場、近いんだ」


しばらく…──そう。


「わかったわ。それじゃ、私もシャワー浴びて寝るわね」

「うん、おやすみ、オバさん」


バタン。シャーッ。輝美は熱いシャワーを浴びながら、胸の奥がどんどん冷たく重くなって行くのを感じていた。


急にどうしたの?どういう事なの?まだ、頭の中で整理し切れていない。


『オバさん』って、『もうあんなコトしない』って、私が認める『結婚相手を探してみる』って…それって、もう私を諦めたって事?これからは女としてではなく、伯母として接するという事?それは、本当に私の望んでいた事…ではなかった──


シャワー…もっと温度上げなくちゃ…いくら肌が熱くなっても、心が冷えて、凍り付いたみたい。


ガクガクガク…熱いシャワーを浴びている輝美のカラダは、ブルブル震え続けていた。そして、頭から流れ落ちるお湯の中には、輝美の涙も混じっていた。


シャワーを浴びた輝美は、真っ暗なリビングをそっと覗いた。重ねた毛布に包まった大きな体が、ソファーの上に横たわっている。


流星…私──どこで何をどう間違えたの?


考えながら部屋に戻った輝美は独り、ベッドへ潜った。


広いベッド…さっきまで二人でいたベッドは、まだ少し温かかった。今は心の中が冷たくて、寂しい。このベッドに残るあなたの温もりがどんどん失われて行くのが辛い。


コチコチコチ…静かな独りの夜の時間は、望んでいたとは到底思えない程、退屈で、要らない物に思えた。


独りがいい──なんて、嘘だった。


二人がいい。あなたのカラダの熱に包まれて眠る程、しあわせな事はないとまた思い知らされた。


『輝美』


今夜、急に、あなたから名前を呼んで貰えない女になってしまった。


『愛してる』


私はあなたからの愛を、撥(は)ね退(の)けた。本当は私も『愛してる』と告げたかった。『あなたを男として見ている』と──でも…


輝美の目から涙が溢れた。今までで一番、悲しいと感じている涙だった。








翌・3月15日 日曜日の朝。


流星はいつも通りだった。ゆうべの事は、もしかしてなかった事に、と期待した輝美に向かって「おはよ、オバさん。朝ごはん出来てるよ。俺もう済ませたから」と流星が言った。


その笑顔も いつも通り。だけど呼び名は変わり、一緒に食事を取らなくなった。そして、キスも、ハグも、セックスも、流星とはもう二度とする事はないのだろう。手を繋ぎ、隣で眠る事すら、もうない。


流星がゆうべ明かしてくれた16歳の誕生日以前の関係に戻った。胸が、張り詰めて苦しい。


輝美は、いつも通り笑ったつもりで「いただきます」と言うと、鉛のように重く感じる胃に、無理矢理 朝食を流し込んだ。


3月16日月曜日、流星は仕事へ行くと言っていたのに、出勤は私より遅い時刻のようで、私が出社する時刻になっても、のんびりと朝食の後片付けをしていた。


「勤務先は、どの辺り?」小さく訊いた私の声は、お皿を洗う水の音に掻き消されたのが理由か、流星からの返事は貰えなかった。

「…いってきます」

「いってらっしゃい」


何も変わらないように見えて、大きく変わってしまった私と流星の内情。喧嘩より遠い位置に離れてしまった。そういえば、喧嘩らしい喧嘩はした事はない。流星への何とも言い表せない気持ちを、いつまでもずるずる引き摺るのが嫌で、いっそ新しい恋をすればいいなんて結論も出してみた。


新しい恋──でも、どうやって?


学生時代のように、簡単に人を好きになれたらいいけれど、それは無理だと、始める前に諦めそうになっている。


見た目が好み、性格がやさしい、趣味がいい、話題が面白い…今の私は、うわべだけで人を判断出来なくなってしまっている。好きになれたとしても、一緒に暮らしたいと思うまでに何年かかるか解らない。性格や好みをある程度知っている"昔の彼"が今、仮に私と暮らしたいと現れても、私はその彼と一緒に暮らしたいとは考えられない。


流星を忘れさせてくれる男が現れたとしても、私はその男と一緒に暮らせるの?暮らしたいの?


──本当に流星を忘れたいの?それでいいの?


──忘れなくちゃいけない。いずれ流星が結婚相手を見つけたら、私達二人の暮らしは終わるの。そうよ。忘れたくない。忘れられない。そんな言葉を吐いたってどうにもならない。


男にフラれて死にたくなって、死ぬって齢でもない。甘えるな。独りで生きると決めた人生、こうなるのは正しい事なのよ。良かったじゃない、両親にも弟夫婦にも睨まれる報告をする事なくて…私は一生独り、と独身を貫くのは、誰とでもいいからという結婚をするよりも、固い信念が無ければ実現不可能な事。


では、心を閉じよう。恋なんて感情は、私の心の中に、初めから持っていなかったもの。私は恋が出来ない女。結婚も出来ない女。独りでもしっかり歩ける女。うん。


会社の裏手で深呼吸した輝美は、よし!と気合を入れて顔を上げると、カッカッと力強く踵を鳴らして会社内へ入った。





週明け月曜の朝礼は、いつも静かな感じがする。土日の連休で、疲れているのか、社員達は静かというより気怠そうで、視線も下を向きがちだ。


朝礼後、数名の女子社員に「塩谷さん、大丈夫ですか?」と訊かれる。


彼女達の目的は何かしら?と考えながら「ええ、もうすっかり。皆さんも風邪には気を付けて下さいね」言った後、少し後悔した。


「風邪ですか…怖いですね。私達も気を付けます」


"お齢を召して体力が落ちているから、ただの風邪でもそんなに休むんですね"という風に思われているのでは?と感じてしまう。


ただの"風邪"と言わず、"インフルエンザ"と言われる方が厄介だと思われそう、と考えて、現に"風邪"だったようだから、そう言ったけれど…齢、確かにそう。


体力がどんどん衰えて来る女。気力も、今は食欲もない。睡眠欲も昔ほどじゃなくなった。それから性欲も衰える、のかしら?それはその方がいいと思う。ただ、快楽に狂えるあの瞬間を味わえなくなるのは、辛い気もする。


どちらにしても、これからは流星とは出来なくなったのだから、セックス自体を諦めるか、私の相手をしてくれる人を探すしかない。


流星以外の相手──それを考えられたのなら、この二年の間にとっくにそうしていた、でもそんな相手はいない。体の相性が良いかどうかは、見た目だけで判断出来ないし。


「塩谷さん、よろしいですか?」村井部長代理に訊かれた。


「はい」仕事しよう。


「先週の会議報告と今週のスケジュール確認を応接室でお願いします」とにかく、恋より仕事よ。


「わかりました」忘れよう、流星の事は。


輝美が休んでいた間の業務報告を、村井と加集から応接室で受けた後、先に村井が退室して、残った輝美が、応接室のブラインドの角度を調整していると「塩谷さん、ご体調はいかがですか?」加集が気遣って声を掛けた。


「あ、ええ…もうすっかり。先週は申し訳ありませんでした」

「いえ、それより…塩谷さん、甥御さんと暮らしているんですか?てっきり、お一人暮らしかと思っていたので…あ、他の人には言ってませんから」


甥御さんって、流星の事…ああ、忘れようと思ってたのに、思い出してしまった。


「あっ、はい…弟の子どもなんです。甥が電話で何か失礼な事を申し上げましたか?」流星の電話の相手が加集さんで本当に良かった。彼は口が堅いから。

「塩谷さんを下のお名前で呼んで、命懸けで護りますから、と言っていたので、甥御さんではないんじゃないかと一瞬心配になりましたけど、でも御無事で良かったです」


恥ずかしい、流星ったら、もうっ!


「ごめんなさい。甥が変な事を…あの子、大袈裟なんです。心配性と言ったらいいのかしら。どうか気にしないで下さい」

「いえ…ただ、気になる点が…」

「気になる点…何かしら?」


輝美はドキリとした。輝美の弟の子と言ったが、それにしては齢が近過ぎると、本当は甥ではなく、嘘を吐いている、と疑われている──?


「いえ、余計でした」

「教えて下さい。加集さんがお気付きになられた事を」

「甥御さんは心配症だ、と仰いましたけれど、とても塩谷さんの事を大切に思われている、とかですか?」

「どうして、そのように思われましたか?」


大切って、それは確かに大切に…でも先週までなんです、というのは加集さんに関係ない話。


「そうでなければ、命懸けって危ない意味にもとれますから。今日、塩谷さん元気ないみたいですし、もし何かトラブルとか悩みとかあったら、一人で抱え込まないで相談して下さいね」


加集さんは、伯母と甥の家庭内トラブルを心配してくれているのね…特に男と女だから、暴力的なトラブルだといけないと危惧したのかもしれない。


確かに、何年も病気でなんて休んでなかったのに、先週は半分以上 病欠してしまったから、心配になるのは当然の事ね。相談に乗って下さるという加集さんのお申し出は本当にありがたいけれど、今のトラブルは少し違うから相談出来ない──暴力的なものではなくて、痴情のもつれというか、何というか…人に明かせる話ではない。


「いえ…甥は真面目ないい子です。危ない事は本当にありません。伯母想い過ぎるだけで…」


その言い訳も、変に思われているかしら。伯母想いの甥なんて…どきどきどき……


「そうですか。それなら安心しました」加集はホッと息を吐き、微笑んだ。


“伯母想い”だなんて言ってしまった事、よく考えると恥ずかしい。だけど、加集さんに、別の意味での”想い”なんですけど、とは絶対に明かせそうにない。


もしも加集さんが、私が12歳も年下の甥を愛してしまったと知ったら、気持ち悪い女だと思うでしょうね、きっと…


やっぱりどうしても無理ね。流星との結婚を考えるのは。私の問題だけじゃない。流星だって12歳も年上の女を妻にした、それも伯母だった女とって、友人に説明出来る?──確かに流星ならするかもしれないけれど、友達付き合いがなくなってしまうかもしれないわ。若い友達の前で流星に紹介される私の姿を想像すると、何だかみっともなくて恥ずかしいし…


「どうしたんですか?塩谷さん」

「いいえ。少し考え事を…ごめんなさい」

「よろしければ塩谷さん。お昼、お先にどうぞ」

「もうお昼…そうですね。では、お先に」


私と加集さんと部長代理は交替で昼食を取る。時間はその時によって、毎回違う。何を食べよう…食べたい物、ないわ。


輝美は、入社当時は同期や先輩社員に連れられ、駅の方まで出て、外で昼食を済ませていた事もあったが、ここ数年は社員食堂で済ませていた。


ふーっ、溜め息は次々湧いて出るのに、食欲は湧かない。


家では、流星が輝美の分も作っていたので、食べずに残すという事が出来ず、何とか食事を取っていた輝美だったが──


はぁ…胃が重苦しい。食べたくないわ。独りで暮らして居たら、間違いなく、食事を作りも食べもしなかったでしょうね。お茶かスープで済ませていたかもしれない。


社員食堂の入口で輝美は、足を止めた。


『本日の日替わりメニュー アジフライ定食』


値段の割にボリュームのある日替わり定食を食べる気にどうしてもなれず、今はお茶だけでいいと考える輝美だったが、他の社員達の手前、食堂内でそれはよくないと考えた。


一度外に出て、コンビニでヨーグルトか何か買って戻る…という気にもなれない。


立ち止まって考える事は、流星の事ばかり。今日、仕事だって言ってたけど、一体どこで働いているのかしら?企業?飲食店?それとも辞めた会社と同じ物流系の仕事かしら…?


輝美は一階の食堂から、出て来て十分も経っていない二階の広報室へと戻って行った。


「あれ?塩谷さん。お昼はもう…?」


出て行ってすぐに戻って来た輝美を見た加集は、驚いた顔で声を掛けた。


「あ、ええ…食欲がなくて。ここでお茶を頂きながら、先週分の仕事をします。よろしければ、加集さん。お昼どうぞ」

「あ、はい…」


返事の後、残念そうな表情を見せた加集の思惑に気付いた輝美は「やはり加集さん、申し訳ありませんが、先週分のこちら、手伝って頂けませんか?」「は、はい!」そうして上げた加集の表情が、ぱあっと華やいだ。


嬉しそう。きっと綿雪さんとお昼を一緒に行く約束をしていたのね。まぁ、私の事を心配して先にお昼へ行ってと言ってくれたのでしょうけれど、それにしては私が早く戻り過ぎたから、綿雪さんとお昼に行けないのではと考えて加集さん、がっかりしたんだわ。


同じ方向へ歩き出せる二人が羨ましい。私も、同じ会社とは言わないまでも、同年代の人と恋愛出来たら良かったかもしれない。


流星との恋は、問題が多過ぎる。流星はそこまで深く考えていないみたいだけど、10年後、20年後、30年後と、考えてしまう。


それは女だから?男は何年も後の事を考えないの?と不安を覚える。流星はまだ若い。口では介護まで考えてると言いながら、実際にそうなった時、嫌だ、逃げ出したいと思うかもしれない。


私だって嫌だわ。彼に苦しみを強いるのは。この齢になると、どうしても目先の利益だけでは結婚に踏み切れない。それは相手が流星じゃなくても同じ事。流星が『結婚しよう』と言って来るのは、今、上手く行っているから、それだけだと思った。


流星は二年付き合った彼女と別れてまで、私と暮らしたいと言ってくれた事は嬉しいけれど、ただそれだけで結婚出来るかと考えたら、やっぱり無理だと思う。


私はいいのよ?だけど、流星が未来をちゃんと考えてないように思えるの。流星は仕事も辞めてしまったのに、子作りするとか──しかも私の年齢を考えずに。


それに両親や弟夫婦とも話し合いが必要だし、色々面倒なそういう事を全部片付けた上で、結婚を切り出してくれたら私、結婚しても良かったかも…えっ?!私、結婚したいの?したかったの?


もしも、何も心配する事がないのなら、私は流星と結婚してもいい──?


確かに、一つ一つ仕事や家族、子作りの問題をクリアし、私が流星の心変わりに対しての不安と、12歳の齢の差を負い目に感じなくなれれば、私は流星と結婚出来る、かもしれない。


その時、輝美の胸の奥が明るく開けて、肩が軽くなったように感じられた。重たかった胃も、気にならない。


私──本当は流星と結婚したかったんだわ。もし、もしも…次に流星が『結婚しよう』と言ったら、私は『はい』と返事をしたい、と思った。


なーんて、思っただけだけ…何となく、流星はまた、私の前からいなくなる気がしていた。







「おかえり。夕飯、カウンターの上にあるから、あっためて食べて。俺、ちょっと出掛けて来るから」

「えっ?こんな時間に、どこへ?」

「その辺、走って来る。最近運動不足だから」


流星は、ナイロン製で黒に蛍光イエローのラインが入ったウエア上下を纏っていた。


ジッ。流星は、ウエアのファスナーを最大まで引き上げ、首元をすべて隠した。


「い、いってらっしゃい…」

「一応言っとく。俺の帰り待たないで、オバさん、先寝てていいから」

「そんなに、遅くなるの?」

「…わからない。いってきます」

「いってらっしゃい。気を付けてね」


ガチャ、バタン。玄関を出る流星の背中に向かって”いってらっしゃい”と放った輝美は、流星の態度が変わってしまってから、流星が戻って来て初めて言った、ただその一言の中に感じ取った小さな喜びを噛み締めた。


“行って来ます”かぁ…行って、帰って来る。ここに、戻って来る。


帰って来る──それが、嬉しい。


私、今年36になるっていうのに、ときめいている。フラれた相手に未練を残し、片想いをやめられない、性質の悪い女。


10代の女の子だったら、乙女の可愛い片想いになるのに、30代後半の女の片想いと聞いたら、まるでストーカー。自分でも、気味が悪いと思ってしまう。


でも、苦しさと切なさは10代の初恋の頃より上回って、20代で経験した別れの辛さをを忘れる位、この恋は私の心を甘く震わせている。


『"多分”、世界で一番好き』


私もそうよ。


あなたには明かせないけれど、私もあなたを世界中で一番好きという絶対的な確信を持っているわ。


"持っていても役に立たない資格"以上に"意味のない恋"だけど。


シャワーを浴びた後、輝美は空っぽのバスタブを覗き込んだ。


今、流星は外に出ている。でも、帰って来る…私が今、湯船に浸かって、のぼせて出たら、流星はどうするかしら──輝美は首を振った。濡れた髪の先から飛んだ滴が鏡に貼り付いた。


やめよう。私の都合で流星を振り回してはいけない。


以前のように、普通に接して欲しい──そんな私のワガママを、流星が聞く義理はない。もし、そうして欲しいなら、”結婚”を受け入れればいい。


…結婚。


もっとやめよう。


輝美はバスルームを出ると、パジャマに着替え、髪を乾かした。普段は後ろで一つに纏めている輝美の髪の先は、背中の中程に達していた。


重くなって来たから、バッサリ切りたいわ。でも…


齢を重ねるにつれて、新たな髪型に挑戦してみようという気持ちは薄れた。


いつもと同じの方が、目立たなくていいのよね。ベリーショートにしている大学生くらいの女の子を見ると、軽そうでいいわねと思うけれど、絶対に真似出来ないわと思ってしまう。大学生に戻れるなら戻って、ベリーショートにしてみたい。


あれも嫌、これも嫌と思う前に、色々な事を試しておけば良かった。恋も、もっと沢山しておけば良かった。今になって苦しむくらいなら、色々な男の人と付き合って、流星に恋する前に恋した人と結ばれておけば良かった。そんなに好きでもなくていいから、誰でもいいから、したくなくても、独りが楽でも、そんな考えに囚われないで、とにかく結婚相手を探して、結婚しておけば良かった。親孝行になるし、弟夫婦にも流星にも顔向け出来ない今のような事にはならなかったでしょう。


そもそも、私が結婚していたら、流星と暮らす事もなく、こんなに苦しむ事もなかったのよ。流星にも辛い思いをさせてしまったし…はぁ…だけど現実には、過去に戻れる訳がないのよ。


それに今、戻りたいのは、そんな大昔じゃなくて、流星を怒らせてしまう前でしょう?怒らせなくて済むのなら、結婚を承諾して…いいえ!それは別の話よ。


リビングに戻った輝美は、通勤鞄の中からブルーの包みを取り出した。


帰りがけに加集に手渡されたのは、流星が彩智に渡していた物と同じ、デパートのホワイトデーの包装紙に包まれた、20センチもない長方形の箱だった。それを手に、カウンターの椅子に腰掛けた。


流星の作ってくれたお夕飯…今日はお昼を食べていないから、何とか食べられそう。


流星から『あっためて食べて』と言われていた輝美だったが、温めずにそのまま、皿を覆うラップフィルムを外して、温いを越して、冷たくなる前の野菜スープをごくんと飲んだ。


コンソメの塩味がいつもより濃く感じた。味覚が鋭くなった事を喜ぶ余裕はない。気持ちが重いと胃も重く、何も口にしなくても凭れたように感じて、食べるのが億劫になって来る。


流星が作った物を残すと何か言われそうだから食べているけれど、もしかしたら、食べなくても今なら何も言われないかもしれない。


しんとした部屋の中で、誰かの作った料理を独りで食べるのは、自分で作った料理を独りで食べるより、時に侘しく感じるものなのだと実感した。


もう明日から作らなくていい、と言おうかしら?


…そうだわ!明日の朝は私が作ればいいのよ。そうしたら、私は食べなくて済む。お夕飯は食べる事になるけれど、朝も昼も食べなければ、もっと楽に食べられるかもしれない。


輝美は夕飯をあまり噛まずに飲み込んだ。ごくん、ごくん、ごくん。吐き出してしまいそうになる溜め息と共に飲み込む食事は、味気なかった。


笑う事も、泣く事も、怒る事も出来ない。独りは楽、寂しさという、闇より底知れない広さの中にただ一人放り出される不安に怯える事がなければ。


「ごちそうさまでした」


洗った食器を棚の中へと片付けた輝美は、再びカウンターの椅子に腰掛け、加集から貰った包みを開けた。


「律儀ね、加集さん。義理だから一人一人に返さなくてもいいのに。部長や部長代理は大きな菓子折りをどーんと買って、”みんな、適当に食べて”で終わりなのに」


呟きながら輝美は、一生懸命な加集の顔を思い出してくすくす笑った。輝美は毎年、広報部の部長と課長に義理チョコを贈っていた。


過去、バレンタインを自粛した年は、会社全体の士気が下がったという話が、役員会議で出たらしく、現在は大っぴらにではないが、社員それぞれの自主性に任せるという流れになっていて、輝美は義理チョコなど、積極的に贈りたいと考える人間ではなかったけれども、贈らない事で相手に気を揉ませるのは申し訳ないと、さほど値の張らない物を二つ選んでいた。


三年前は三つ用意して、一つを流星に渡していた。あの頃は、流星に対してこんな感情を抱いていなかった。


カサ、カサッと包装紙を開くと出て来た加集からのお返しは、平たいスクエア缶入りのキャンディーとミニタオルのセットだった。


缶の中には、何味か分からない外装の袋に入ったキャンディーが5つ。紙の外箱を裏返して製品表示を見ると、『レモン味』らしい。


レモンか──酸っぱいのは、好きでも嫌いでもない。キャンディー自体、あまり食べない。


でも折角だから、と輝美は缶の中から一つ抓み、袋を割いた。


現れた黄色い丸い粒を袋に包んだまま口に近付け、指で袋の外から粒をころんと口の中に押し出した。


ぱくん。輝美の舌の上に載ったキャンディーは、酸味より甘味の方が強かった。


酸っぱくない。レモンというから、すごく酸っぱい味を想像していたけれど、これでは少し物足りないわ…物足りないだなんて、どっちなのよ。贅沢者ね。酸っぱいのは嫌、と思っておきながら、いざ食べて酸っぱくないとガッカリするなんて、色々と求め過ぎなんだわ。齢のせいにしたくはなないけれど、何もかも、昔より一つの事に貪欲になってしまうのは、沢山の選択肢がなくなっているからかもしれないわね。


人生の時間もどんどん失われて、新しい事に挑戦する勇気も気力もない。今までに知ったものを、より深く追い求める方が よくなっている。


結婚もそう。これから新しい出逢いがあるとしても、きっとその人を深くは愛せない。


これから出逢うその人を、流星より深く愛する事はないと、私にはもう解っている。


それでも、誰かと結婚──しなくちゃいけないのかしら…そうね。この気持ちを切り替えるには、必要なことなのかもしれないわ。


結婚か…


輝美は、口の中で転がしていたキャンディーを、ガリガリと噛み砕いて粉々にした。








はっ、はっ、はっ…流星はマンションの周りをぐるりと二周走り、時計を見ると、まだ30分も経っていなかったので、三周目に突入した。ぽつんぽつんとまばらに立つ外灯に照らされた歩道を走りながら、一昨日の夜、ベッドの上で輝美に言われた事を思い出していた。


『ずるい…』


"ずるい"って、何だよ…畜生!ずるいのはそっちだよ。甥としか思ってない俺をその気にさせた酷い女。よく平気な顔していられるよな。俺は辛いよ。伯母と甥に戻るってこと、拒否して欲しかったのに、輝美が頑なにそうしない理由は、俺の事をどうしても男としては見れないからなんだな。


確かに輝美からしたら俺は、年下で頼りなくて、経済力もない男。甥じゃなければ一緒に住んでだっていない人間。輝美を俺だけのものにして、俺だけを愛して欲しいっていう願いが届かないのは当然かもしれないと思えて来る。


でもさ、また一緒に暮らし始めて、輝美の態度が昔と違う気がして、少し希望の光が見えて来たと感じていたのに──結局、輝美にはカラダの繋がりがあれば、俺じゃなくても、誰でも良かったって事だったんだ。


それでもいいとか、ちょっと考えた俺自身に嫌気がさした。俺が本当に欲しいのは、カラダじゃない。輝美の心が欲しい。そこは譲ったらいけない。


俺の心を独り占めしたいと輝美にも思わせたい──でも、実現出来なかった。


不公平だ。


俺だけがこんなに輝美を独り占めしたいと焦って、狂いそうになってるのを抑えるのに必死だっていうのに、輝美は淡々と自分の生活を送るだけで、俺には全く関心を示してくれない。


会社内の誰かを好きだから、俺には関心を示さないのかと、今日、輝美の周辺を調べもしたけれど、それらしい相手は見つからなかった。


カシュウとかいう、輝美と同じ部署の男は、受付の美人OLと結婚間近らしいから、そこは心配要らなかったけど。


好きな男がいない…それなら輝美は、俺に限らず、誰も好きにならない女なのかもしれない。だから、いくら俺が結婚を迫っても無意味だったのか?


輝美が欲しいのは、男じゃなくて、快楽を与えてくれるモノだったんだ。それは俺じゃなくてもオモチャでもいい…という事を理解して輝美の事を諦めるのは簡単じゃない。


誰のものにもならない女。誰でもいいなら、俺のものになってよ。大事にするからさ!


はっ、はぁっ、はぁ…!…っく、ふぅ、ふーっ…カラダも疲れた。


そろそろ、帰ろう。帰りたくないけど。帰りたくないっていうのは、輝美に会いたくないからじゃない。


俺の事なんて好きじゃない輝美の事を好き過ぎる自分の気持ちを隠せなくなる事が嫌なんだ。


恋愛心理って、追われると逃げたくなるっていうからな。だからもう、俺からは追わないんだ。輝美から追いかけられる確率なんてほぼ0%だけど、追いかけても捉まえられないんだから追うな──でも、好きだから、心配だから、俺は輝美の傍に居て、輝美を守りたい。


そうだよ。今は辛くても、毎日顔を合わせられるだけでいいと思おう。


いや矛盾してる・・・顔を合わせるのが辛くて外に出て来たんだった。輝美の近くに居たら、抱き締めたくなるし、キスだって、セックスだってしたくなる。


無理矢理押し倒して、犯す事なんてワケないし、輝美だってセックスは拒まないだろう。男なら誰でもいいんだから。


あんな宣言したのだって、すでに後悔してる。この先、輝美を抱けないなんて地獄だ。このまま一生男としてなんて見てくれなくてもいいじゃん、ペットでも、カラダだけ繋げられれば。


その代わり、輝美の夜の相手は俺だけっていう…うっとり…いやいやいや、それじゃ駄目だから、この曖昧な関係を断ち切る為に宣言したんだから。しばらく我慢だ、俺。


…しばらくって、いつまで?


俺が我慢している間に、輝美が新たなペットを見つけたら?


…やっぱり今夜、襲っとく?


がーっ!ダメだー!もう一周走れ、俺!足腰プラス、コレも立たなくなるまで走れ!


ぐわあああぁっ!


ぜーっ、ぜーっ、ぜーっ…疲れた。


もーこのくらいでいいだろう。今日は立ち仕事+走ったから、膝も腰もガクガクして来た。走る前なら暴走しそうだったコレも寝たまま。


マンション10階の部屋に戻った流星は「ただいまー」とスニーカーを脱ぎながら呟いた。


洗面所で手洗いうがいをして、後ろのバスルームを振り返ると、灯かりは消えている。リビングの灯かりは点いていたから、輝美はまだリビングに居るのかな?


ドッドッドッ…走っていた時よりも胸が高鳴る。意識し過ぎて、何だかとても緊張して来た。


俺の事を好きじゃない女。だけどカラダは許してくれる女。凛として、美しくて、情の厚い女。


俺が世界一好きな女。


鏡に映った顔を確かめると、目が血走り、耳と頬が赤かった。これは、寒い中走って来たからだ。決して輝美を意識している訳じゃ、ないんだから…


ザー、バシャ、バシャッ。流星は冷たい水で洗った顔を、乾いたタオルでゴシゴシ拭いた。


やばい、余計 赤くなった。もういいや。何か言われたら、適当に誤魔化して風呂に入ろう。


何か言われるって、何を言われる?例えば…


『ただいま。あれ、オバさん、まだ起きてたの?』

『眠れなくて…ねぇ、流星。今夜もソファーで寝るの?』

『別にいいだろ?』

『体に良くないから、ベッドで寝たら?』

『…何で?』

『あ…あの、私…あなたがいないと眠れないの』

『俺じゃなくても…男なら誰でもいいくせに!』

『あなたじゃないと駄目なの!私は、流星と結婚したい!』

『俺と…本当に?』

『あなたを愛しているの』


…なーんて、世界がひっくり返っても言わないな、輝美は。あーあ、プロポーズ断られた相手と暮らすなんて、ありえない事をするのってキツいなー。追い出されない為にも、取り敢えず”甥”役に戻るしかないよな。


流星は洗面台の灯かりを消すと、灯かりの点いていないキッチンへ足を運んだ。そこからカウンターキッチン越しにリビングを覗くと、輝美の姿はなかった。


「輝美、もう寝たんだ…なんだ、そっか…」


キッチンで水を飲んだ後、リビングに入った流星は、ソファーにドカッと腰を下ろした。


それから開いた腿の上に両肘を乗せ、前屈みで項垂れた。


「馬鹿みたい、俺って…」


本当は輝美に構って欲しくて堪らないくせに、あんな事言ってさ。俺の胸の中には、後悔しかないよ。


「あーっ。もうっ!」


流星は、両手でガシガシと髪を掻き毟った。


ガシャッ!


流星は、床の上に何か硬い物が落ちたような音にハッとして顔を上げた。


音のした方を見ると、居ないと思っていた輝美が、椅子に腰掛け、カウンターの上に折った両腕を枕に、どうやら眠っているらしい。


ソファーから立ち上がった俺は、輝美の隣に立った。


眠ってる…パジャマで…白いうなじを隠す黒髪、襟元から覗く鎖骨のライン。


輝美のこんな無防備な姿を見られるのは俺だけ…なんだけど、それは現時点での話。


この先、俺が先か、輝美が先か、お互いに結婚してもいいと思う相手とめぐり逢ったら、俺はもう、輝美のこんな姿を見られなくなる。


触れたいな。願わくは、のぼせてない輝美から求められたい。


ハッ!今はそんなことより、風邪を引くといけないから。


「てる──」


声を掛けて、起きなければ抱き上げて、ベッドへ運ぶのは、以前まで。


今はそんな事、出来ないんだった。


「オ、オバさん!こんな所で寝ると、また風邪引く!」


流星は輝美の肩に手を掛け、少し荒っぽく揺すった。


「ん…流…!」


目を開いて俺を見た輝美は途端に表情を強張らせた。


俺は少し傷付いた。


「こんな所で寝るなよ」

「ご、ごめんなさい…」

「なんか落としたよ。これ…」


輝美の足元に落ちている小さな缶を、流星は屈んで拾い上げ、カウンターテーブルの上に置いた。


「あ、ありがとう。そうだ。流星も食べる?レモンキャンディー」

「キャンディー?」

「貰ったの。はい、これ」


輝美は缶の中から飴を一つ取り出すと、反対の手で流星の手を取った。上に向けた流星の手のひらの上に、輝美がキャンディーを載せようとした時、流星が「誰から貰ったの?」と訊いた。


「会社の人、から…」

「会社の人って誰?」

「加集さん。ほら、この間、流星が電話で話した人」


カシュウ…ああ、美人受付と婚約した奴か。


「なんで貰ったの?」

「バレンタインのお返しだって」


バレンタインのお返し…それでキャンディーか。


「チョコ、渡したんだ。本命?」輝美…実はカシュウに片想いしていたとか?


流星は輝美に渡された手のひらの中のキャンディーを、グッと握り締めて訊いた。


「そんな訳ないでしょう」

「好きなオトコ、いないの?結婚考えられるようなオトコ、会社にいない?」


いない──そう言われたら安心するというものでもないけど、輝美は結婚を考えていない筈だから、


『いないわ。私は結婚するつもりないから』


俺以外の男との結婚を考えられるより、せめてそう言われたかった。


でも、輝美の答えは──


「これから見つけるわ。結婚…考えてみる。流星も、結婚したい人が見つかったら、紹介してね」


そう言って俺を見上げ、微笑む輝美の目は潤んで、艶めかしくて──欲情する。


伯母としてなんて見れないよ。俺は、輝美の事を、完全に女としてしか見れない。俺だけがとことん悩んでいるのが悔しかった。更に他の男から貰ったという憎たらしいキャンディーを、何の考えもなしに渡されて、腹が立って足元のゴミ箱に叩き込んでやりたくなった。


でも、グッと堪えた。


元々、俺から『結婚相手を見つける』と言い出したんだから、嘘だったとはいえ、吐き通さないと、甥としての立場もなくなる。


くそっ!俺はどうせ恋愛対象に見られないガキだよ!


「紹介って──わかってるよ。結婚したい相手、見つかったら知らせるから」引き攣る笑顔、歪んだ口元を見られたくなかった俺は、輝美から見えない様、顔を背けた。


「うん。それじゃ、私…先に休ませて貰うわね」


輝美はカウンターテーブルの上の小さなタオルの上に缶を載せ、それらを一緒に右手で握り締めると、椅子から立ち上がった。


「おやすみなさい、オバさん」

「おやすみなさい」


パタン。トタトタ…ガチャ、パタン。


リビングから出た輝美は、寝室に入ったようだ。


はーっ…深い溜め息を吐き出しながら流星は、その場にしゃがみ込んだ。手の中に握っていたキャンディーを放り出すと、冷たい床にゴチンと額を付けた。


いらねぇよ、こんなもの。


俺が欲しいのは、キャンディーなんかじゃないって、どうしたって解ってくれないんだろ?


“結婚しない”


“独身を貫く”って、言ってたのに…


急に輝美が結婚する気になったのはどうしてだ?俺のプロポーズなんて無視され続けたのに。


カシュウが結婚するから?いいや、俺が結婚相手探すって言ったから、じゃあ自分も、って考えたの?


それとも、俺が輝美のカラダの不満解消しなくなったから、輝美はカラダ目当てで結婚相手を探すつもりになったとか?


でもカラダ目当てなら、結婚じゃなくてセフレ?一緒に住むつもりだから結婚?じゃあ、俺を追い出すつもりなのかな?


なんか俺、どんどん追い込まれてる気がする。とにかく、俺の行き当たりばったりの作戦は、すべて裏目に出てしまったらしい。


行き当たって、バッタリ。あはは、ははは、全然笑えない。


「俺…もうダメだ…どうしようもない、カンジだ…」


弱々しく呟いた流星の目に、熱い物が込み上げた。


知らなければ良かったのかな、愛なんていう気持ちは。


包まれたらあったかくて、いつまでも離したくなくて、でも俺がそれをいくら望んでも、やっぱり、ずっと傍には居てくれないものなんだな。俺は"愛"とは無縁な人間なのかな。


愛して欲しい相手から相手にされない。


欲しがるからいけないんだ。欲しくない。愛は要らない──なんて、嘘だ。


ずっと欲しかった。


輝美に俺を愛して欲しかった。


輝美の唯一の男になりたかった。


大声で叫んでも、絶対に届かない気持ちを持て余して、苦しい。









『結婚したい相手、見つかったら知らせるから』


流星から放たれた言葉に、胸の奥を抉られたみたいだった。


零しそうな涙を堪えるのに必死だった。


今、立って居る場所は夢の中かもしれないと混乱した。


流星が、結婚する──誰かと。


真っ暗な部屋のベッドに伏した輝美は、枕に顔を埋めた。


遣る瀬無い。息が苦しくて、焦燥が募る。そうよ、いっそこのまま息が止まればいい。流星の事を考えなくて済む世界に行ける。


私の気持ちを悟られないよう、

『これから見つけるわ。結婚…考えてみる』

そんな事を言った。言いたくなかった。でも、流星に向かって"結婚なんて考えられない"…とは言えなかった。


誰とも結婚したくないけれど、誰かと結婚しないと、あなたと結婚出来ない私は、苦しくて狂ってしまうかもしれない。


あなたの結婚に、心から賛成出来ないままでいたくない。忘れたいの。あなたをワスレサセテくれる人は、誰でも同じ。


快楽を与えてくれる人を探そう。誰でもいい、そう思い込んで一緒になれば、それがいつか愛に変わる日が来ると信じよう。


女は男を愛するように創られている。だから、私はきっと愛せる。あなた以外の男も愛せる筈。


あなたを追わなくて済むように、私とあなたの間に立ってくれる人なら、どんな人でもいい。







翌日・火曜日から輝美は、密かに婚活を始めた。


まさか一生することはないと思っていた結婚活動。でも、婚活って具体的にどうすればいいのか…と考えている内に、火・水・木・金。明日は、また土曜日になってしまう。


結婚に関する様々な情報に敏感になった結果──結婚相談所は35歳以上の女性が登録しても厳しいらしいと、社内で女子社員達が話しているのを聞いた事があるのを思い出した。


合コン、と今時は言わないその集まりに、年下の女子社員から私も誘って貰うというのは難しそうね。こんな時、小説やドラマでは、親戚や上司から、お見合いのお話があったりするけれど、今日現在、私の所にそういったお話が来る予定も予感もございません、でした…


はぁーっ、心の中で溜め息を吐くのは、今週何回目かしら。ずーっと胃が重い。


結婚なんて──”なんて”と思ってしまう時点で結婚を”大事”に考えていないわね。


したくないのにする、結婚。


“したくない”?


正確に言うと、結婚は”面倒”、”億劫”、”不要”、そして”未知”=”怖い”生活。


結婚生活について色々な所から聞きかじった話を集約すると、お互いの事を知り尽くし、新たな魅力が発見出来なくなった以降、受け入れられない部分が目に付く度に、だんだん愛情が薄れて行くというのが結婚生活…らしい。


それは、仮に私の結婚相手が流星と考えても、愛情を長続きさせるのは簡単な事ではないと思える。


私には、流星への愛情が薄れて行かない自信があるけれど、流星は違うと思うのよ。


あと4年で40歳になった私が、いつまでも流星から愛されていると思えない…現時点で愛想尽かされて、家庭内別居みたいになってしまっているというのに、いつ飽きられて、出て行かれてしまうかと思うと怖い。


「塩谷さん」


はぁっ…塩谷…流星も塩谷…


「塩谷さん」


トントン、と背中を叩かれながら、ボリュームを下げた高音ボイスで呼びかけられた輝美は、机に向かっていた顔を上げ、バッと勢いよく振り向いた。輝美を呼んだのは、溪と共に受付業務に就く鈴木りいなだった。


「はい…鈴木さん。どうしました?」


いつも見るりいなとは違うと輝美が感じたのは、りいなが制服から私服に着替えていたからだろう。りいなの後方、突き当りの壁に設置された時計を見ると、終業時刻を20分過ぎていた。


いやだわ、私…随分ぼんやりしていたのね。


村井部長代理と加集課長代理は他の部の部長達と一緒に、今夜は外で懇親会だと、定時前に総務へ向かった。異動に関する送別会とも聞かされている。


確か営業部の安藤部長が──「…と言う訳なんですけれど、いかがですか?」


りいなに訊ねられた輝美だったが、肝心な部分を聞き逃していた。


「え、ええ、ごめんなさい。何かしら?ぼんやりしてしまって、もう一度お願いします」

「新しく入った方の歓迎会といいますか、飲み会なのですけれど…塩谷さんが必要なんです!」

「え?飲み会に私が必要って、どういうことかしら?それと、新しく入った人って、新入社員の入社式は来月なのに?」

「その、新しく入った方というのは社員食堂の契約社員で、当社の社員ではありません」

「でしたら、私が歓迎会に参加する必要はなさそうですけれども?」

「そう、なんですけれど…お願いします!今夜少しでいいですから、お時間作って頂けませんか?」


鈴木さんの話によると、その新しく食堂に入った契約社員というのは、20代前半の細身長身の男で、歓迎会はしなくていいと言ったそう…だけど、周りがその男と飲みたいと騒ぎ出したらしく、どうしてもと言われた男は、じゃあ…と条件を出した。


それが、『塩谷』という名前の人が参加するならというものだったそう。


『塩谷』という名の人が参加するならば、その男も友人を呼ぶと言った。


もしも私が断ったら、その飲み会というか合コンというか、婚活会合?の計画は流れるそう。おかしい話よね…


輝美がりいなに何故『塩谷』なのか訊ねると、わかりません、という答えだった。





3月20日金曜日、22時過ぎに輝美は帰宅した。


19時半から駅近くのビル内にあったダイニングバーで開かれた歓迎&極秘婚活会は、約二時間後の21時半にはお開きになり、各々帰宅したのか二次会に向かったかは、帰宅を選んだ輝美にはわからなかった。


久し振りに歩いたから、踵が痛い。行くべきではなかった。惨めというより恥ずかしい。


身の程を弁(わきま)えるきっかけになったから良かったじゃない──流星は、まだ帰って来ない。


結婚?婚活?笑っちゃうわ。女としての価値は無い。この齢になったら寧ろ弊害。男だったら良かった。


女に生まれてしまったから、今、こんなに苦しいのよ──


本日の会の幹事は、総務の深瀬さんと営業部の山代さん、共に30歳の女性社員。二人は同期入社で仲が良く、外見も似せている。休憩中は、よく二人一緒に居るので、男性社員達からはどっちがどっちか判らなくなる時があると言われたりしている。


社員食堂の女性契約社員と交流がありそうなのは、総務の深瀬さんね。


社員食堂の運営は、外食産業を得意とする企業に委託してあり、社内で関わりがあるのは総務部の人間だけだった。


あの“条件”が無かったら、鈴木さんと私に誘いの声が掛かる事はなく、食堂に勤務する契約社員だけの会になっていたか、会自体なかったか。けれど『塩谷』という人物を連れて来るというおかしな”条件”の為に、深瀬さんと山代さんが組んで、私の所属する広報部の鈴木さんに持ち掛け、鈴木さんを使って条件通りの私を誘わせた。


そして私も、断れなかった。


彼女達の顰蹙(ひんしゅく)を買いたくないのは勿論だけど、それに加えて婚活に勤しむ独身女性達の気持ちが解りかけている女として、また、婚活を考えている女として、断れない立場に立たされていたから。


それに、参加を決めた一番の理由は、その男性契約社員が気になっている事だった。そんな条件を言い出す20代前半の男とは、流星以外に思い浮かばない。流星が新しい職場を教えなかったのは、それがうちの会社の社員食堂だったから…


家に帰ってから訊けば済む話だけど、今の私と流星は、普段の会話すら、碌(ろく)に出来なくなっている。


第三者が同席している方が色々話せるかもしれない、もしも条件を付けて来た男性新入社員が流星ならば…と淡い期待を抱いた輝美は、歓迎会が行われるという駅近くのビル内にあるダイニングバーへ、りいなと一緒に向かった。


ダイニングバーの入口でウエイターに名前を告げ、予約席に通されると、10人まで掛けられるソファーが正方形のテーブルをぐるりと囲んだ個室だった。


入口は北東にあり、南側の下に線路を臨む大きな窓、それ以外は西洋の古代壁画を模した壁、照明はキャンドル風で明るくはないけれど、暗くもなく…


「あ、鈴木さん、塩谷さん。お好きな所へどうぞ」


入口から一番奥の位置に掛けていた深瀬さんが、私達が個室の入口から入ると、立ち上がって、手のひらを上に向けた左手でソファーをさした。


お好きな所と言っても…来た順に座ると、必然的に入口付近になる。


コートを脱いだ輝美は、りいなの分も預かり、入口付近に備えられたクロゼットに仕舞った。りいなを先に座らせ、輝美はクロゼットに一番近い所に腰を下ろした。


奥まった場所に座るのは苦手だから。ここならすぐに退席出来るし…とはいえ、勝手に帰る事は出来ないわね。


テーブルを挟んだ向かい側に男性が座るのだろうと、綺麗に半分空いているソファーと期待に胸を膨らませて座って居る女性達を見ると、私には婚活なんて無理かもしれないという思いが強くなった。本当に結婚したい訳でもないのに婚活に片足を突っ込もうなんて甘かったわ…同僚女性達の前向きな姿勢に気圧された輝美は、意気消沈していた。


コンコン!


「お待たせしました!」


ウエイターの声と思って入口へ視線を向けると、サラリーマン?…スーツ姿の20代と思しきの男性が立っていた。


流星じゃ、なかった…じゃあ、何故?…ホッとした後、頭の中で疑問符が飛び、流星が来ないと判ったら肩の力が抜けた。


「あ、の、お好きな席に、どうぞっ…!」


先程のように立ち上がって席を示す深瀬さんの声が、緊張からか裏返った。


確かに緊張するかもしれない。全員、私の想定より若いメンバーだった…来月入社する新入社員と同じ位──大学生じゃないわよね?社会人よね?


一、二、三、四人の男性、最後に入って来たのは…流星だった。


三番目に入って来た人と、流星だけスーツではなかった。


「塩谷さん!」


山代の声に、輝美はハッとした。


「今夜は、僕の為に素敵な会を開いて下さってありがとうございます。お言葉に甘えて、以前勤めていた会社の同僚と、大学時代の友人を誘いました。それから食堂の先輩の藤崎さん…は、ご存知でしたね」


流星が山代の方を向き、にこやかにそう言った。


流星、笑ってる…


「本日の主役なので、こちら中央へどうぞ!」

「あ、どうも…」男性全員、コートを脱いだ。


立ち上がった輝美は「こんばんは」と挨拶をした後、手際良く四人のコートを預ってクローゼットに仕舞った。


「すみません」

「お願いします」

「ありがとうございます」


三人の男性が、輝美にお礼を述べる中、流星だけは無言だった。


流星がソファーを奥へ進むと、両脇を女性が挟んだ。


流星ったら、何故私をここに呼んだの?男性も女性もみんな輝美より若い。この中で輝美が最年長であることは、誰の目にも明らかだった。


席に着いた流星は、輝美とは一切視線を合わせなかった。


女性が五名、男性が四名、一人都合が悪くなったとかで、参加者は九名だった。


女性は来た順に座っていたけれど、後から来た男性四人は、空いている向かい側の席にそのまま座らなかった。


りいなの隣の食堂の女性社員らしき人に、同じく食堂の男性社員と思われる人が、親し気に話し出したので、輝美とりいなが一度立って、席を空けると、一つ奥に詰めて腰を下ろした。


りいなと輝美が元通り腰を下ろすと、すでに向かい側は男女交互に座っていた。注文はウエイターを呼ばず、すでに卓上のパネルで始めているようで、輝美はただ、流星の顔も見られず、膝の上で両こぶしを握り締めながら、テーブルの上に視線を落としていた。


そこへ不意に、

「飲み物、何になさいますか?塩谷さん」りいなに声を掛けられた輝美は戸惑った。


自分より年下の人と飲む機会は、社内で行う歓迎会や送別会の類で、ダイニングバーに来て飲んだ経験も殆どない。こういう時、何を飲んだら…メニュー帳を探したが、無かった。全てタッチパネルのあの機械の中に表示される仕組みなのか、この店にどんな酒や料理があるのかわからない。


カクテルにも詳しくないし…本当はウーロン茶がいいけれど、飲む席で、アルコール以外の飲み物を頼みにくい。


「私は、ビールをお願いします」


ビールはあるわよね?大抵、どこの店にも。


「塩谷さんはビールにするそうです」


りいなが、肩を並べてパネルを覗き込む深瀬と流星に向かって伝えると、操作する手を止めた流星が、輝美の事を一度見た。


何?まさか、ビールがなかったとか?


くすくすと楽し気に笑う深瀬さんと山代さんに挟まれた流星は、二人と何か会話しているみたいだけど、ここからでは聞こえなかった。


輝美は俯かないように、懸命に、右隣に座るりいなの方を向いていた。








「女性の塩谷さん、ビールですって」

「さすが!」


俺の両側の自由を奪う女達が、デカい声を出した。うるさい、耳障りだ。


何が”さすが”なんだか。ビール頼むなんてオッサン臭いとか輝美に対して思ってるんだろ?一見、持ち上げているっぽい貶め方。そういうの、俺は好きじゃない…っていうか、あんた達の方が臭い。香水?何の臭い?吐きそう。両側ベッタリくっつかれて動き辛い上、耳にかかる生温い息が気持ち悪い。


『"塩谷"っていう人を連れて来てくれるなら参加してもいいですよ』


あんな条件出したら、こんな会の計画なんて無くなると思ってたのに、どうやったんだか、しっかり輝美連れて来るなんて参ったよ。


けど、一番ムカつくのは輝美だ。男との飲み会なんて断ると考えてたからワザと条件にしてたのに、しっかり参加してるし。断れなかったとか?情けない。こいつらみんな後輩だろ?ビシッと断れよ。しかも、先輩なのにあんな端っこに座って、注文するのはビールだって?家じゃ全然飲まないくせに。


「流星くん、何にする?」

「俺もビール」


元同期は飲めないヤツと、カクテル派。他の女性社員もそうだろう。輝美だけビール注文したら一人浮く。それを避ける為、俺もビール。


「えっ、意外ー!じゃ、あたしも」


ピピピ、ピピッ。よし!輝美のは、ノンアルコールビールに変更しておこう。


「あれ?何でノンアル?流星くん飲まないの?」

「ああいう年上の人って酔わせると絡んで来そうだから。僕苦手なんです。女の人がベロンベロンに酔った姿って、特に彼女のは見たくないので」


俺に纏わり付く二人の女だけに聞こえる程度の声で説明した。


「ああなるほど。そうですね」

「確かに。でも塩谷さんって飲んでも崩れなそう」


くすくす、笑い出した総務と営業部の女。輝美をバカにして、ムカつく。


マジで帰りたい。輝美を連れて逃げたい。何で来たんだ、輝美…流星は輝美がここに来た理由を考えていた。


『これから見つけるわ。結婚・・・考えてみる』


ハッ!まさか…それで今夜、この会に参加したのか?


はぁーっ…もしもそうだったら、俺と一緒には帰らないって言うだろうな。まぁ帰ったって、家の中で輝美と前みたいに話す事が出来ないけど。二人きりで近くに居たら、俺、輝美のカラダに触れないでいる自信がなくなる。


明日で一週間…俺の禁欲生活がいつ限界に達して破綻してしまうか、そろそろカウントダウンに入りそうなんだよ。


家の中で、俺と二人でいる時に輝美が俯く度、胸がギュッてなる。


笑わせるのは簡単だ。俺が折れて、カラダだけの関係に戻ればいい。輝美を悦ばせて元通りだ。だけどそれじゃ駄目なんだ。俺の心は、いつまでも苦しいまんまだ。


誰かに輝美を取られたくない。真剣に輝美を手に入れたい。カラダだけじゃなく、心も俺に開かせたい。


今だって、こんな離れて座ってたくない──けど、今現在の俺と輝美の心の距離は、もっと遠く離れている。


はあぁ…何回目だ?胸の中で溜め息吐くの。顔に出さないのって相当疲れる。俺、いつまで我慢したらいいんだろう。一生?輝美の傍に居る間、ずっと?


わかってくれないかな。


俺はあなたの甥じゃなくて、伴侶になりたいんだよ。







テーブルの上に、一度に運ばれて来た飲み物の中から一つ私に手渡されたビールは、ノンアルコールだった。


一見判らなかったけれど、乾杯して、一口飲んですぐに気が付いた。ビール風味の清涼飲料。ビールに似せてるけど、薄められた感じでコクがなく、アルコールの鼻に抜ける感じもない。


流星や深瀬さん、山代さん達と脚付きグラスの形は一緒だったけれど、私に渡されたグラスだけ、底に白色の縁取りがしてあった。


ははーん、流星、注文する時に私のだけノンアルコールにしたわね?その意図は、どう取ったらいいのかしら?


"ハヤクカエレヨ、オバサン"?


"ヨッパラッテ、ミダレテ、オレノトモダチノマエデ、シュウタイサラサナイデ"?


一杯位いいじゃない。醜態は絶対に晒さないわ。今夜は私だって飲まなくちゃ、やってられないというのに。


ぐいっ、輝美はノンアルコールビールを一気に呷ってグラスを空にすると、テーブルに置いた。そして輝美は、りいなが飲んでいるオレンジ色のカクテルに目を付けた。


「鈴木さん、それお酒?美味しい?」

「ええ。ジュースみたいな色ですけど、飲むと結構強いお酒でした。塩谷さんも、これ追加しますか?」

「お願い出来るかしら?」

「はい──深瀬さん、すみません、このオレンジ色のカクテル一つ追加して下さい」


各々が簡単に自己紹介した後、輝美の頼んだカクテルがテーブルに運ばれて来た。


お洒落なカクテルね。確かに、オバさんの私には似合わない感じだけど、関係ないわ。飲もう。酔ったら、少しは流星の事を忘れられるかしら?


頭の中がいっぱいで、他の事を考えたいのに…同じ空間に居たら、尚更気になって仕方ない。


二人で家に居る時より、他の人も居る時の方が落ち着かないのはどうしてなのかしら? 二人だけの時は、会話も無くて気まずいのに、こうしてあなたが私には見せなくなった表情で他の人と話しているのを見ると、まるで私だけ、あなたの世界から締め出された存在みたいに思えてしまう。


あなたが私を遠ざけたいなら、それでいいけれど…


輝美はオレンジ色のカクテルを飲み干した。空っぽになったカクテルグラスを見つめ、輝美は胸の奥に痞えた想いを吐き出すように、深く息を吐き出した。


私があなたを消す事が出来ないから、あなたの方から私を消してくれるなら──あなたが望むなら、私はここから、いつ消えてもいいと思ってしまうの。


飲んで、軽く食べて、世間話をして、これが婚活と呼べるのか、ただの飲み会としか思えなかったのは、流星以外の男性を意識出来なかったからなのか──私は二時間、何を飲んで、何を話して、どんな顔をしていたのか、全く憶えていない。


壁一枚隔てた隣の部屋から覗き見しているみたいな気持ちで、私はこっそり流星を見ていた。


流星は私がここにいる事など、まるで意識していなかった。私の事なんてもう──忘れた、関係ない、ただの同居人。だから平気な顔をしていられるのね。そうよ、私だけなのよ。あなたへの未練を引き摺っているのは。


何故来てしまったのか、ここへ。それは現実を見る為だったのよ。流星の相手は私ではない。わかっているようでわかっていなかった。その現実から目を逸らす為に、自分自身も結婚相手を見つけようとしていたけれど、もうやめよう。意味がないわ。


元々、結婚したい訳じゃなかった。先に流星の結婚相手が見つかれば、そんな事をする理由はなくなる。


流星に出て行って欲しくない、それは私のワガママだった。


愛想を尽かされたの、私は。嫌われたの、流星に。


流星は家(うち)から出て行く…私の前から去って行く運命だという事は、最初から決まっていた。




会は二時間でお開きになった。更に仲を深めたらしい食堂の契約社員の二人は、お先にと二人で夜の街に消えて行った。


鈴木さん、深瀬さん、山代さんは30代前後、食堂の契約社員の男女と流星の友人は20代前半から後半。


流星と二人の男友達は一緒にカラオケに行こうと相談していた。それに、深瀬さんと山代さん、鈴木さんも引っ張られて、3対3になって、ダイニングバーのあるビルを出た所で、どこに行こうかという話は盛り上がっていた。


六人に挨拶した輝美は独り、駅から自宅まで早足で歩きながら、星のない曇り空を時折見上げた。


私だけ30代後半だったわ。一人だけ浮いていた、うふふ、恥ずかしくて笑ってしまう。


流星がこんな、年増の私を若い人の中に引っ張り出して、晒し者にするような真似をするなんて…結婚を断った私に対して抗議していると取るべきかしら?


それとも、現実を見てって事かしら?私なんかに結婚相手は見つからないよって思い知らせたかった。


そうだとしたら、家に帰った私が、どんな顔を流星に見せたら喜ぶの?


惨めな女の顔?寂しくて哀し気な目?


“現実を見ろよ、その齢で嫁の貰い手なんてないよ”


結婚を断った腹いせ?ううん…流星はそんな事する人じゃない。じゃあ、何故今夜私を呼んだのか益々わからない。


あなたの心がどんどん遠ざかって見えなくなって、手を伸ばしても掠りもしない。


結婚したい、愛してる──あなたのそれは、やはり一過性のものだった。ずっとずっと、手に入れたら手離せなくなるものだって、あなたはそう考えていなかったんでしょう?飽きたら捨てる。子どものおもちゃみたいに。私を捨てる。そして、別の女性に興味が移るの。


でもね、私は、あなたのものになったら、ずっとずっと、あなたのものでいたくなってしまうから、結婚したらあなたと別れたくないと思ってしがみ付いてしまうでしょうね。


例えば今、あなたの願いと私の願いが同じでも、きっとそれを願い続ける長さが違った、って後で思い知らされるのは嫌よ。


私は愚かだから、一度手に入れたしあわせを、死ぬまで手離したくないと願ってしまうの。


おとぎ話のハッピーエンドが、ずっとずっと、続くと、子どもの頃から信じ込まされているせいもあるかもしれないわ。


勿論、結婚がゴールではない事も、現実の生活のことも何となくわかっていたから、結婚に過度の期待を抱いたことはなかった。独身である事を不幸だと思った事もなかった。


それよりも、誰かにしがみ付いて重い枷のような存在の人間になる方が嫌だと感じていた。色々な事を考えれば考える程、怖くなってあなたを突き離した。


あなたと私の人生の速度は違う。だから、離れよう──と、苦しくても選んだ道なのに──毎日、後悔しか増えないのはどうして?


プロポーズされた時、私はあなたに愛し続けて貰える自信が持てなかった。周囲の反対とかモラルとか考えたら、もっとずっと、あなたとの結婚は難しいとしか思えなくなってしまった。


でも、そんな周囲の事を全部無視してでも気持ちに正直になって、怖れも捨てて、あなたとの新たな未来を夢見ようと考え始めた矢先…今度はあなたの方から、離れて行った。


ぐずぐずしていた私のせい。


二人の関係の修復は不可能。


今まで通り、伯母と甥に戻る、それで良かった筈なのに──良かったと思えない私はダメな人間になったわ。


苦しい?──いいえ、苦しくない。

寂しい?──いいえ、寂しくない。


独りは最高なのよ。いつからそれを忘れてしまったの?


欲を掻けば限がない。


家に着いた輝美は、しばらくの間、何をする気にもなれず、ただリビングのラグの上に腰を下ろし、ソファーに背を預けていた。


流星に対しての気持ちは、恋ではなく、若者への憧れ。アイドルグループの追っかけと同じ心情。若い男の子のファンになっただけ。手の届かない片想い。あれ…恋になっている?


ううん、ただの追っかけよ。流星はもう、私に触れる事がないんだから、手の届かない存在になったと簡単に思い込める。


その内、流星が選んだ誰かを私の前に連れて来て『結婚します』と紹介してくれるに違いない。


その時は、悲しいとか、寂しいとか思わない。流星がしあわせになれる相手なら誰だっていいのよ、私じゃなくても──やだ、また涙が…齢を取ると涙脆くなるって本当ね。最近、ますます涙腺が弱くなって来たわ。目の周りの筋肉を鍛えられるのなら鍛えておこう。すぐに涙を零さないように。


23時を過ぎて、流星を待つのを諦めた輝美は、リビングでスーツを脱ぎ、バスルームの前で裸になった。


シャワーの音で嗚咽を掻き消しながら、30分。涙はようやく治まった。


バスルームの時計は23時45分。


流星はまだ帰って来ていないみたい。カラオケの後は…女性にお持ち帰りされるのかしら。


見た目、草食系といわれる流星。仮にシマウマ。


みんな流星より年上の肉食系女性達。仮にライオン。


彼の味を知ったら、嵌まらない女はいないと思える。


美形って訳じゃないけど、目鼻立ちは整っている方。頭の回転は速く、ユーモアがあって、サービス精神旺盛。やさしくて気が利いて、まめな人。


悪い所は、そうね、思い込んだら突き進む所かしら。諦めないのが彼のいい所。


私の事は、諦めたみたいだけど。


いいな…私も伯母じゃなく、20代だったら、何の躊躇いもなく、流星の胸に飛び込めるのに。


流星と女性の情事を想像したら、カラダも温まった事もあって、自慰したくなった。


バスタオルだけを巻いてベッドルームへ移動し、裸でベッドに潜り込んだ。


ベッドの中は冷たい。冬だからよ。一人だからって訳ではない。体を丸めていると、ベッドの中がだんだん温まって来た。


早くイッて、スッキリしたい。頭の中と胸の中の靄を快楽の波に呑ませて、綺麗さっばり消して──


唇を自分の舌で濡らし、右手の人差し指でなぞった。硬く尖った胸の先を、左手の親指と人差し指で抓み、転がした。更に、口に含んで唾液で濡らした右手の指を、閉じ合わせた脚の間、疼く秘処へ向かわせた。


くちゅ…


柔襞を割って指を奥に押し進めると、中は少しだけ濡れているのが判った。


カンじたい。


ホントウハ、アナタノユビデ…いいえ、それは思い出さないで──


あ、ん…っ!あ──


アタマのナカが真っ白になって、何も考えられなくなるアノ瞬間を一刻も早く味わって、胸の奥に居座る寂しさと遣る瀬無さを捨てたい。波が来る度、頭の中に浮かべてしまう流星の顔を必死に打ち消した。


クチュ、グチュ、プチュ、プチュン…!


激しく擦っても、ナカに指を挿れても、何もカンじなくなっていた。


濡れて来ない。キモチ良くなれない。どうしても、イケない──


もうだめ…あなたがいないと、私は快楽まで得られなくなってしまった。


イク事を諦めた輝美は、蜜穴から指をそっと抜いた。指と秘処を清めると、パジャマを着て、ベッドに横たわり、頭から布団を被った。


ただ切なくて、あなたの事を思い出すと、哀しくなって、涙が零れる。漏らしそうな嗚咽を聞きたくなくて、両手で口を塞いだ。


二年前のあの時も辛かったけれど、今のこの時より、まだましだったかもしれない。自分の気持ちを認めざるを得なくなった現在はもう、逃がす場所がなくなった。


あなたを愛したい気持ちを消すには、どうしたらいいの?


あなたには見せられないこの想い、ないものと思い込んだら、胸に、ぽっかり大きな穴が開いたみたい。空っぽになった筈なのに、心はちっとも軽くならない。ずしんと重くて、冷たくて、上手く息を吸えなくて、涙は止まらなくて…


後悔ばかり募って、

あなたに会いたくて、

もう一度、抱き締めて欲しくて、

辛いの。


戻れるのなら、あなたにプロポーズされた時に戻りたい。


あなたの人生を滅茶苦茶にしてしまうとしても、今の私はあなたに縋りたくなっている。それじゃ、いけないという自制心は、今の私には無い。


早く帰って来て。


もう一度、今度は私から、あなたに…誰の所にも行かないでと言いたい。


ここにいて、ずっと、私の傍にいて欲しいの。


泣き疲れた輝美は、いつの間にか眠り、気が付いたのは、明け方──鳥のさえずりで目を醒ました。


目の下がヒリヒリして、瞼も重い…鏡を見なくても、酷い顔だろうと察しが付くわ。


はっ…!


流星は、帰って来たのかしら?


ゆうべは興奮していたからよく憶えていないけれど、感情に任せて流星に『結婚しましょう』と言おうと考えていた事は思い出した。


でもやっぱり、この気持ちを流星に告げてはだめ。


だけど、このままでは──私は一体、どうしたら…


ベッドの中で体を起こした半裸の輝美は、両手で頭を抱えた。ガウンを羽織り、腫れた顔をタオルで隠しながらベッドルームを出ると、リビングへ向かう勇気は無く、玄関を見に行った。


施錠してあるドアの下には、自分の通勤用の黒のパンプスしか置いてなかった。


流星──帰ってないの?


ひやり、心の奥を冷たさが過った輝美は、顔を覆うタオルを持つ手を下に下ろしていた。


じゃあ、あの中の誰かと、朝まで一緒に過ごして──それで、帰って来たら…


『俺、彼女出来たから』


あの時みたいにそう言って、流星が再びこの部屋を出る日が刻一刻と近付いているのかもしれない。


苦しい。一度味わったのに、昔よりも、今の方がずっと苦しい。


本当に胸が張り裂けそうよ。


出て行かないで、流星。


本当は、二度とこの家からあなたを見送りたくないと思っている。


本当は、あなたを忘れたくない。


本当は、愛してる。



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碧井 漪

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