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sazanamiの物語

恋愛小説を書いています。 創作表現上の理由から、18才未満の方は読まないで下さい。 恋愛小説R-18

近男 -Kindan- (R-18) 改稿版 6 嫉妬の始まり(32~36話)

Posted by 碧井 漪 on  

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「お待たせいたしました」近付いた店員の声と気配に、輝美はハッと前を向いた。白いソーサーの上に、背の低いカップとスプーンが載せられて、輝美の前に置かれた。

コーヒーの香りは、鼻が詰まっているから感じられない。

頼りない湯気が立ち昇るコーヒーを冷まそうと、スプーンでグルグル掻き回した後、輝美はカップの持ち手に人差し指を通した。

カチャ、ソーサーから持ち上げたカップの淵が唇に触れようとした時「いらっしゃいませ」店員の声が入口に向けられた。

「すみません。待ち合わせなんですけど」息を切らした若い男が入って来た…それは流星だと、輝美が店の入口を向く前に声で気が付いた。

「彩智!」
「流星、ここよ!」彼女は流星に向けて手を挙げた。

輝美は口を付ける前のカップを、カシャン、ソーサーの上に置いた。この喫茶店内に居る店員も、お客も、誰もが、二人はお似合いの恋人同士だと思っているだろう。

流星の手には、小ぶりの紙袋。上から覗いているのはカラフルな造花の花束。ブルーとイエローのロゴで装飾されたそれは、遠目に見ても、このデパート地下のホワイトデーのものらしいと、輝美にも何となく判った。

流星が彼女に向かって「はい」と笑顔で差し出した紙袋をテーブルの上で受け取ったサチさんは、「いいのに」と唇を動かし、はにかんだ。

向かい合って座る二人はテーブルの上に顔を突き出し、小さな声で会話しているようだ。輝美には、二人の声が全く聞こえなかった。

二人の横顔はにこやかで、とても一週間前に別れた関係には見えない。

ソーサーの上に置いたまま持ち上げていないカップが、輝美の指先から伝わった振動で揺れた。輝美は自分の心の中がスーッと、冷たくなって行くのを感じた。

今日は私が会社に行ったから、その間に流星は内緒で彼女と会っているというの?別れたというのにホワイトデー?

ああ…私が結婚に「うん」と言わないから、流星は私を諦めて、彼女とやり直す道を選んだのかもしれないわね。

『一週間前はごめんね。テルミさんとはどう?』
『俺の方こそごめん…輝美とはもう、伯母と甥に戻ったよ』
『結婚するんじゃなかったの?』
『結婚は断られた。彩智が帰った後、輝美に追い出されて…俺がどうかしてた』
『それって…』
『彩智と、やり直したい。彩智が俺を許してくれるなら』
『流星…』

二人を見ないようにして、雑誌を捲っていた輝美の頭の中に、想像の二人のやり取りが浮かんでしまった。

ううん、そんな事ない…でも、だったら何故、流星は別れた彼女と逢っているの?私を愛していると言っておきながら、何だか浮気された奥さんみたいな気分…そうか、そうなるのが怖かったから、秋子さんや両親への体裁を無視したとしても、流星とは結婚出来ないと考えたのかもしれない。

齢を重ねる度に衰えを感じている女は、この先どうやって自信を付けたらいいというのだろう?整形でもする? 心だって年々卑屈になって行くみたいで、今だって、若い彼女に対して何にもならない嫉妬を抱いて、自分が本当に醜くなって行くと感じる。

名前負けしているとつくづく思う。美しく輝けない。ああ、逆の意味かしら…輝くから美しい、輝けなかったら美しくない…ううん、今は名前の事より――とにかくやっぱり、流星とこのまま一緒に暮らすのは無理なのかもしれない。

世間的に見ても変よね。独身三十路の伯母と二十代の甥が一緒に暮らしているなんて、ご近所さんの恰好の噂のタネよ。

ぎゅっ…カップを持つ指に力を籠めた輝美は、口元に運ぶと、コーヒーを一口飲んだ。温くなったコーヒーは、苦そうな色をしているのに、何の味も感じなかった。

輝美は流星と彼女に気付かれないように、静かに店を後にした。そして真っ直ぐ家に帰ると、シャワーを浴び、薬を飲んでベッドに潜った。




午後二時前、眠れない…そう思っていた輝美が再び目を開いたのは、夕方五時過ぎだった。

コホコホコホ、加湿器もマスクも忘れたから、喉がカラカラだわ。頭がボーッとする。

ええと…私は今朝、会社へ行って昼頃に早退し、駅ビルの書店で雑誌を買ってそのあと、どうしたんだっけ?

ハッ!

喫茶店で見た流星と彩智の姿を思い出した途端、輝美は眠っている間に見ていた夢を思い出して、吐き気を覚えた。

あの後、流星とサチさんがホテルへ行って、ベッドで裸で抱き合って…そんな夢…うっ、胸が、気持ち悪い…自分も同じ事を流星としているというのに、気分を悪くするなんて、どこまで勝手なんだろうと呆れる。

流星が、私以外の女を抱く…そんなの当然じゃない。流星は私の恋人でも夫でもないのよ。私が流星を縛る権利なんてどこにもない。

流星が誰を抱こうと…私には関係ない。

逆だってあるわ、と輝美は自分が他の男に身を委ねる姿を想像してみたら、もっと気分が悪くなってしまった。

他の男に体を触られたくない。裸を見せる事も嫌だわ。これって、何?もしかして嫉妬…私、流星の事を男として見てるの?

輝美の胸の奥に焦燥が押し寄せた。

チリチリ、チリチリ、心の中が燻って、やがて真っ黒に焦げて行きそうな、とても嫌な感覚。

流星、今、どこ…?

ベッドルームを出た輝美は玄関へ行った。

流星の靴がある。帰って来ている…ホテルから?顔を合わせたいような、合わせたくないような、複雑な気分。

彼女とヨリを戻したら──流星は、私の許から去って行く。

二人はどうなったの?元に戻った?とは訊けない。だっておかしいわよね、干渉し過ぎよね。

ガシャッ、ガシャ! キッチンから金属音がした。輝美がフラフラ歩いてキッチンを覗くと、朝よりも明るい表情で夕飯の支度をする、エプロン姿の流星がいた。

「コホ、コホッ…」イガイガしている喉から咳が出てしまった。

「あ、輝美、起きた。具合どう?いつ帰って来たの?俺が買い物から戻ったら、玄関に輝美の靴があって、ベッドで寝てたからびっくりしたよ」
「…コホッ」私に内緒で彼女に逢ってたから、それを隠す為に朝とは違って明るい顔をしているの?

「あ、水?ちょっと待って」流星は食器棚から取り出したグラスに、水道浄水器を通した水を入れると、輝美に手渡した。

こく、こく、ごくん。グラスの水を半分まで飲んだ輝美の目が虚ろな事に気付いた流星は「輝美、どうしたの?」左手で輝美の持つグラスを右手ごと包み、右手を輝美の額に当てた。

「ねぇ…こんなオバさんと暮らすの、もうやめたら?」
「突然何…?」驚いた流星は、輝美の額から右手を離した。

輝美は俯き「やっぱり疲れちゃった…二人で暮らすのは疲れるわね」小さな声で言った。

「疲れる?本当に?俺が嫌になったんなら、輝美!」大きな声を出した流星が、ビクリと肩を揺らした輝美の両腕を掴んで「本当なら、俺の目を見てそう言って」と輝美に顔を近付けた。

輝美は流星から目を逸らした。流星は輝美から両手を離すと、明るい声で「ご飯、もうすぐ出来るから、向こうで待ってて」と輝美の呟いた言葉をふいにした。



「ごちそうさまでした」流星の作った夕食を食べ終えた輝美は、二人分の食器を下げ、キッチンシンクの前で腕捲りした。

食器用スポンジを手に取ると「こーら。病み上がりの人は水仕事しちゃだめ!」と輝美は後ろに立った流星にスポンジを奪われた。

「平気よ。水仕事って、お湯だもん」水栓レバーを赤の方へ捻ってから上へ引き上げて水を出すと、少ししてから湯気が上がった。

「流星、スポンジ返して」
「ここは俺が引き受けるから、輝美は手を洗って美味しいお茶煎れてよ。それに、薬飲むの忘れてる。はい、喉鼻に効く薬」流星は、輝美の差し出した手に、薬の小瓶を握らせた。

「わかったわ。ありがとう」輝美は薬を飲んだ。

カチャカチャ、と手早く食器を洗う流星の横で、輝美はやかんでお湯を沸かし、お茶を煎れた。

こういうのは好きだわ。二人でキッチンに立って、それぞれが別々の事をするのだけれど、ぶつからない。流星だから出来る事かもしれない。他の人と、こうしてキッチンに立つなんて事は出来そうにない。

母と実家のキッチンに立ったって、ここまで上手く補い合えない。

流星だから…そうよ、流星は私とではなくてもきっと上手くやって行けそうね。サチさんとも、それ以外の人とも…私とじゃなくても、きっと上手くやって行く。

やだ…何かしら。胸が重く塞がった感じ。少し息苦しい。

二つのマグにお茶を煎れ終えた輝美は、胸に右手を当てて、スーハースーハーと深呼吸をした。それに気付いた流星は、濡れた手をタオルで拭くと「輝美、どうしたの?」と輝美の顔を覗き込んだ。

「ううん…何だか胸が少し息苦しくて…」
「ここ冷えるから、先にリビング行ってて。俺がお茶持ってくから」
「うん…ありがとう」

流星の手に包まれた肩の一部分が熱い。もっと、触って欲しい──はっ、私、何を考えてるの…!

「顔赤いよ。熱出て来たんじゃない?体温計、引き出しに入ってるから熱測っておいて」
「もう熱はないわよ」
「わからないだろ」

カチャ、カチャ。流星はマグを二つ載せたトレーを片手で持つと、輝美の背中を手のひらでそっと押した。

どきん、どきん…

リビングのソファーに座った輝美に、流星は引き出しから持って来た体温計を手渡すと、隣に腰を下ろした。

ピピッ。体温計の電子音がすると、流星が輝美の前に手のひらを差し出した。輝美は脇の下から引き抜いた体温計を流星にも見せた。

「36.6℃、ほら、もう熱はないわ。治っ、コホコホ!」
「治ってない。今日だって早退したんでしょう?無理したら駄目だよ。元はといえば俺のせいだから悪いのは俺だけど…」

流星は、広げたフリースケットで輝美の肩と背中を包み、お茶の入ったマグを手渡した。

「ありがと…」
「輝美、お茶飲んだら寝てね」
「まだ20時前よ。それにさっき眠ったから眠くない」
「風邪薬飲んだから、30分で眠くなるって」
「まだ寝ない…」
「何で?理由は?」
「……」

私は、見たくなかったけれどテレビを点けた。たわい無い話題が提供される事を期待して。

何でもない話から、流星が今日何をしていたのかという話に繋いで、一番気になってしまう流星とサチさんの今後の話を訊き出そうなんて考えていた。

でも…流星は私が”まだ寝ない”と言ったのを快く思っていないみたいで、私の手からテレビリモコンを取り上げると、テレビに向け、ピッと消してしまった。

ローテーブルの上に、バシン、とリモコンを置く音で判る。そんなにピリピリしなくてもいいでしょう?

もしかして、私がサチさんとの事を訊こうとした事に何となく気付いて、それで怒ったの?

「輝美、風邪がぶり返したらどうするの?あったかくして、早く寝なさい」

一人で暮らしていたら、当然口やかましい人も居なくて、風邪を引いて夜遅くまで起きていたって文句を言われたりしない。だけど、看病もして貰えない。意識が無くなって、そのまま──という怖ろしい危機に直面するかもしれない。

それを考えたら、こうして二人でいるのは贅沢な事で──そう、贅沢だから、もう少しこうして居たいと思ったのかもしれない。

これ以上怒らせたくないからだけではなく、サチさんとどうなったのかを訊くのはやめた。だって…訊いたらなんとなく流星と別れる時が早まりそうな気がしたから。

何かあった?と訊いて、何もない、と言われても、私はそれを信じられず、安心出来ないだろうし、何かあった?と訊いて、うん──と返事をされたら、別れの日はいつかと怯え始める、それよりは訊かないで知らない方を選ぶ。

私だけが知らないでいればいい。流星の気持ちもサチさんの気持ちも、自分の気持ちも、知らなくていい事だから。

ずず、ずずっと、お茶を飲み干した輝美は、ローテーブルにマグを置いて、両膝を抱えた姿勢でソファーに座って目を閉じ「少しだけ、ここに居させて」と流星に頼んだ。

「わかった」目を閉じた輝美の耳の奥に、流星の声が響いた。

こうして、あなたの隣に居られる事以外を望まないようにしよう。

“わかった”──その答えが私のすべてを受け止めてくれているようで、とても安心出来た。あなたの隣にこうして座って、この居心地の良さを感じていられるのはいつまでなのか…それも知らなくていい事。

もしも未来が見えたら、一人ぼっちで寂しいのは、きっと私だけなんでしょうね。

流星はもう、私と結婚したいとは言って来ないと思う。私も、流星と結婚するつもりはない。

流星は、サチさんと何かあってもなくても、いずれ結婚したいと思う相手の所へ、ここから再び離れて行くと思う。

それがいつかは、この先いつか知らされる。知りたくない、今は何も考えたくない、いつかが来るなんて…

輝美は思考を閉じた。そして──

こてん。流星の左腕に、輝美の頭が寄りかかった。

すーすー…目を閉じている輝美は、寝息を立てていた。

「てる…」流星は声を掛けるのをやめた。

そっと輝美の頭を両手で支え、自分の膝の上に輝美の頭を下ろした流星は、輝美の頬に掛かる髪を指で掻き上げ、耳の後ろへ掛けた。現れた輝美の滑らかな下顎のカーブを、下へと辿った流星の視線は、うっすらと開かれている輝美の無防備な唇へ注がれた。

結婚したいのは、何故かって?

この艶やかな唇もそうだよ。俺のものにしたい。他の男に触れたり、触れさせたりなんて嫌だよ。

だけど、この輝美の唇は、俺じゃなくてもキス出来て、俺じゃなくても咥えられるんだろう?たとえ、俺が輝美のカラダゼンブを手に入れられたとしても、心だけは俺にくれるつもりはないんだよね。

輝美は、俺の事を子どもとしか思ってない。それでも40歳位になったら、おじさんと思ってくれるかな?

輝美の昔の男は年上だったと聞いた時、そうだろうなとは思ってたけど…昔の彼とやらがせめて同い年だったら、年下の俺でもまだ希望が持てたんだろうけど。

眠る輝美に催眠術を掛けてでも、俺を好きになって貰いたいと考える。男として意識してくれるだけでもいいよ。

「わかってよ、輝美。俺も男なんだよ」流星は膝の上の輝美の頭を撫でながら呟いていた。

輝美の頬に唇を落とそうと、流星が上体を屈ませた時「いやよ…流星…嫌…っ!」輝美が声を上げた。

驚いた流星が輝美の顔を見ると、閉じた目から涙を零し、苦悶の表情を浮かべていた。

「そんなに、俺の事が嫌だったんだ…ははっ、傷付くな…疲れるって言われたのとWパンチだ」流星は輝美の体を抱き上げ、ベッドへ運んだ。



輝美は夢を見ていた。

『わかってよ、輝美。俺も男なんだよ』何を解れっていうの?

サチさんと別れたなんて言ってこの家に戻って来て、先週のここでのサチさんとのやり取りは、私の手前のお芝居だったんじゃない?

私、今日見たのよ。二人が逢っている所。そうよ、私より彼女との方が、絶対話が合うに決まってる。

もしも私と結婚したとしても、数年後、あなたは私の許を去るかもしれない。

そんなの…『いやよ…流星…嫌…っ!』捨てないで…なんて言葉、自分の齢を考えたら呑み込んでしまう。

年齢を気にして黙ってしまう私にあなたは『わかってよ、輝美。俺も男なんだよ』そう言って、私を置いてまたここを出て行ってしまうのね。

忘れてはいけないのはあなたがまだ若い事。一時の気の迷いで私に結婚を申し込んだ事。だけどそれを忘れて、本気にしてしまいそうになっている愚かな私。

何を信じたらいいのか解らない。何に従って進めばいいのか決められないの。

こうすればしあわせになれる──それは、今がしあわせで未来は不孝になる選択肢か、今は不孝で未来にしあわせを感じる選択肢、どちらも選べない私がいけないのだけれど…

「『行かないで、流星…!』」ベッドルームを出ようとしていた流星は足を止めた。

流星が振り向くと、廊下を照らす光の帯の中に、ベッドに横たわる輝美の右手がこちらに向かって挙げられているのが見えた。

「俺と居ると疲れるって言ったくせに…行かないでって、何だよ…輝美のそういう所、キライ」流星はドアを閉めた。再び暗くなったベッドの上に一人横たわる輝美の許へ行き「俺を苦しめる、本当に酷い女」そう言って、輝美に深くくちづけた。

眠っている筈なのに、舌は応じるとか、どれだけエロい女なの?男なら何だっていいなら、俺だっていいじゃん。俺こんなに輝美の事好きなのに…こっちを向いてよ。

俺のカラダゼンブあげるから、少しだけでもいいから俺のココロも求めて満たしてよ。今すぐじゃなくてもいいからさ。輝美に必要とされる男になりたいんだよ。

いや…唯一の男として必要とされたい、かな。


土曜日の朝、輝美が目を醒ました時、ベッドに流星の姿は無かった。

あれ…流星、またいない…私が嫌になって、再び出て行ったという事はないわよね?

『俺を苦しめる、本当に酷い女』

夢の中で流星に投げ付けられたショックな言葉を輝美は憶えていた。現実の流星はそんな事を言ったりしない。

「夢で良かった…」

時刻は7時過ぎ、パジャマの上にガウンを羽織った輝美は、キッチンへ向かった。しかし、キッチンにもリビングにも流星の姿は無く、カウンターテーブルの上に、メモが残されていた。

久し振りに見る流星の字。男の人らしく角ばっている。流星の書く漢字は少し縦長で右上がり。

『お昼には帰れないと思うから待たずに食べて。冷蔵庫にサラダ、ホットサンドとコーヒーはメーカーにセットしてあるから、それぞれスイッチ入れてね。いってきます 流星』

「どこへ行ったの?流星…」呟きながら輝美は”流星”と書かれた文字を指でなぞった。

カウンターの椅子に腰掛けた輝美は、ここへ流星の彼女が来た日の事を思い出していた。

あの日…流星は彼女の前で私を抱き上げたまま、キスをした。もし、私が彼女だったら…殴る位じゃ気が済まない──でも、流星を殴る?

殴らないと思う…殴れない。だって、私は嫌われても仕方ないと思う。それに怒る前に、諦めなくてはならない相手。

ゆえに、流星がサチさんと逢っても、他の女性と逢っても、私は喜ばなくてはならないの。

ぴょんと飛び跳ねて椅子から腰を上げた輝美は、カーテンが開いている窓の方へ足を向けた。

「さぁ、余計な事を考えてないで、ご飯食べたらお洗濯とお掃除しなくちゃ!んーっ!もうすっかり元気…」

曇った空を見上げながら伸びをしていた動きを止めた輝美は「元気、出さなくちゃね…」と溜め息と一緒に独り言を吐き出した。

掃除も洗濯も終えた輝美は、朝兼昼を食べながら撮り溜めた映画を観ようと、ソファーに腰を下ろした。

独りがこんなに侘しく感じるなんて…流星がにぎやかだから余計──独りがいいと思ってた。だけど今の私は、二人がいいと思ってしまう。

ご飯を食べるのも、映画を観るのも、ただこの部屋で過ごすだけも、流星と二人がいい。流星、早く帰って来ないかしら──

静か過ぎると感じる部屋で、じっとして居られなくなった輝美はキッチンへ行き、エプロンを着けると冷蔵庫を開けた。




ガチャ、ガチャン!玄関の鍵が外から開けられた。

夕方、陽が沈む前になって、ようやく帰って来た流星は「ただいまー、あー疲れた」と言葉通りの疲れた顔を、キッチンに立っていた輝美に見せた。

「お帰りなさい。予定より遅かったのね」

リビングでコートを脱いだ流星の姿に輝美は驚いた。かっちり閉めたネクタイ、細身のスーツをピシッと着こなして、土曜の朝から一体、どこへ出掛けていたのかとても気になった。

「その恰好で、どこへ行ってたの?」
「んー、ちょっとね」

何かを隠して、えへへと笑った流星の顔は、無邪気だった学生の頃を髣髴(ほうふつ)させた。

楽しい所?だけどスーツで。もしかして、サチさんのお父さんに頼んで、退職撤回して貰って来たとか。

それとも、結婚のご挨拶とか?或いは、単なるデート…?

「スーツ着て、サチさんと会ってたの?」
「違うよ」
「隠さなくていいわよ。この前、金曜日のお昼頃会社を早退した後、見たの。流星が駅ビル内の喫茶店でサチさんと会っている所。お似合いだった。当然よね」
「なにそれ。ヤキモチなら嬉しいけど」
「やちもちって…そろそろおばさんをからかうのはやめたら?」

ふふふ…輝美は目尻に皺を寄せ、右手の甲を下唇に当てて笑った、ふりをした。本当は緊張状態の続く輝美の心臓は、強く跳ね続けていた。

「からかう?何の事を言ってるの?金曜日は彩智が休みだからって、俺の退職に関する書類、わざわざ届けに来てくれたんだ」
「それだけ?」

ホワイトデーの包み、渡していたでしょう?何とも思っていなかったら渡さないんじゃ…

「何、何で?彩智と会ったらいけなかった?」
「いけないなんてとんでもない。この前、元気なかったのに、今日、元気みたいだから、サチさんと会って楽しかったのかなって。もっとサチさんに会えばいいのよ!」

輝美は思う事と反対の事を口走った。

別れたんなら会って欲しくないなんて、私が言うのはおかしい。でも、私…流星がサチさんをどんな風に抱きしめて、どんな風にキスをして、どんな風にセックスをなどという想像が止められなくなって…苦しいの。

今日会って、デートして、手を繋いだ?キスをした?抱きしめた?…セックスもした?

「今日はそういうんじゃない。とにかく彩智には会ってない」
「今日は会ってないとしても、この前は会って、楽しかったのでしょう?」
「輝美、しつこいよ」
「……」
「まぁ楽しくないって事はないよね。彩智と別れたのは嫌いになったからじゃないから。友達だし」

キライニナッタカラジャナイ──それは”マダスキ”という事。

“友達”として会って、ついでにセックスもする?そうしたら、私みたいなオバさんの相手を無理にする事もなくなるわね。ヨカッタヨカッタ…

「そうよね…ごめんなさい、余計な話をして。私には関係なかったわよね。流星が誰と会おうと…」誰と付き合おうと私には関係ない。この気持ちが何なのか、気付かないままでいられたら、私はきっとしあわせだった筈。ならば、気付かなかった事にしよう。

「ねぇ、輝美。それってやっぱり嫉、いや…」

くすんだブルーのネクタイを白いワイシャツの襟から引き抜く時、シュッと音がして、最後の方は、輝美の耳に届かなかった。

「しっ?…何?」
「何でもない。気にしないで」流星は、輝美から視線を外してクローゼットの方を向き、上着を脱いだ。

「やっぱりって言ったのは、確信があったんでしょう?し、し、し?何かしら?」
「確信なんて微塵もない。絶対あり得ない事だから気にしないで」ワイシャツの背中を輝美に向けたまま、流星はスラックスを脱いでいる。

「そう言われたら余計に気になるわ。私に隠し事?」
「隠し事じゃないよ。輝美に訊きたい事はあるけど」
「訊きたい事?私に──何?」
「あのさ、輝美──もしも俺の子を妊娠してたら、どうするつもりだった?」


「前みたいに堕ろした?
「……」フルッ、輝美が首を横に振った。
「じゃあ、産む気だったの?俺の子どもを」

眉根を寄せた輝美は、口を引き結んで俯いた。

答えない輝美の気持ちを知りたい流星は、黙って腕を伸ばし、輝美の体をぎゅっと抱き締めた。そうしてただ黙って抱き締めたまま答えを求めない流星に、輝美は本心を明かしたくなった。

流星の言う通り、私達は伯母と甥だけれど血は繋がってない───もしも本当に妊娠していたとしても、流星は未成年でも学生でもない…私が子どもを産んでも問題ない…いいえ、そんな訳ないわ。

輝美の脳裏には流星の母親・秋子の顔が浮かんでしまい、やはり結婚を考える事は出来なかった。その為、輝美は流星に『好き』と告白したくなる衝動をグッと抑えた。

本当はあなたに言いたい。『好き』も『愛してる』も『何よりも大事』、それから『結婚したっていい』と言いたいのよ。

でもね、言えないの。『あなただから言えない』の。

ぐす…っ。輝美は抱き締めらられたまま、流星の胸で涙を零した。

「泣かないで。俺、傷付くよ」

流星に誤解しか与えられない輝美は、それが悲しくて更に泣いた。

好きなのに、伝えられないなら、嫌いになりたい。あなたを大切に想わないようにするには、どうしたらいいの?

我慢出来なくなった私の心が弾けて、この気持ちをあなたに知られてしまう前に、早く何か考えなくてはいけないのに…あなたの胸の音を聴いたら、あなたを傷付けることはどうしても言えない。受け入れる事も拒絶する事も出来ない私は、中途半端で嫌になる。

輝美は目の下を両手で拭うと「私ったら、ごめんなさいね。お腹空いてる?今夜はグラタンよ」何事も無かったかのように、明るく振る舞った。

「やった!俺も作ろうと思ってたんだ。輝美、冷蔵庫の生クリームに気付いたんだ?」
「エビにイカまで揃えられてたら、グラタンしかないでしょう?」
「焼くのに20分位かかるよね?その間にシャワー浴びて来る。あー、それと、ご飯入れてドリアにしてよ、腹ペコなんだ」

流星はいそいそとバスルームの方向へ足を向けた。

「チーズたっぷりにする?」輝美の声を背中に受けてリビングのドアを開けた流星は「たっぷりで!」振り向いて笑顔を浮かべた。

「了解!」

流星の嬉しそうな顔を見せられて、私の顔も緩んでしまう。ああ…伝えられない悲しみなんて、流星の笑顔一つで吹き飛んだ。

流星のしあわせだけを願うようにしよう。そうしたら、悲しくならない。

焼き上げて少し冷ましたグラタンとチーズたっぷりのドリアを、今夜はローテーブルで、リビングソファーの前のラグに二人並んで座って、はふ、はふ、と食べていると「あちっ、やけどした!」流星が声を上げた。

ぼんやり考え事をしていて、まだグラタンに手を付けずにいた輝美は、その声に驚いて流星の方を向き「どこ?早く冷やしなさい」と慌てた。

「やけどしたのココ、舌…輝美の指、冷たいよね?貸して」
「ちょっ、りゅう…!」

ぺた。

流星は輝美の人差し指を掴むと、それを自分の口から出した舌の先に押し当てた。

「冷たくて気持ちいい」
「水で冷やした方がいいわ」輝美は水の入っているグラスを差し出した。

「急に冷たくするのって、痛いからやだ」
「じゃあどうするの」
「こうすれば治るかも」

ちゅうっ、ちゅっ。流星は目を閉じて、輝美の指をしばらく吸った。気付かぬ内に、母性を刺激されてしまった輝美は動けなくなっていた。

そんな輝美を突然引き寄せた流星は、輝美の唇を強引に奪った。そして、やけどしたという舌を、輝美の口内に押し込んで来た。

「う、むぅっ…!」輝美の口の中で、挿入り込んだ流星の舌が暴れ回った。

あ、ダメ…!忘れられそうだったのに。あなたのキスも、あなたに触られる感覚も、忘れようとしていたのに。

流星に正面から押され続けた輝美の背中は、トンとソファーへ押し倒され、前方は流星のカラダに塞がれ、流星の腕の檻の中に閉じ込められた。

唇を離した時気付いた流星の真剣な眼差しに、輝美は目を奪われ、心を衝かれた。

あ…

ぞく、ぞくぞく、と輝美の肌が粟立つ。もう無理だわ──あなたを忘れるという事は、振り出しに戻ってしまった。

それなら、キスをもっと、して…あなたをではなく、私が私である事を忘れられるまで──罪を忘れて欲に溺れる、ただの女にして。

ちゅ、ちゅっ、ちゅうっ!流星は輝美の口を吸いながら、輝美のシャツの裾から静かに手を入れた。ブラジャーを押し上げ、両手の指先で、輝美の硬くなった両胸の先を弄り始めた。

「あ、ふっ…うっ、や、ぁっ…!」

ビクビクして、堪らない。う、もっ、もっと…お願い…触っ…て…!

胸の先の薄い皮膚を通した刺激が、輝美のカラダの中芯へ伝わり、欲を欲する場所を蠢かせた。


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碧井 漪

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