積み重なって解けるとき 22
リアル・恋愛小説 |
きみちゃんが店を休んだ今日は月曜日。
あと一時間で閉店時刻を迎える17時30分。僕は厨房の壁に付いた時計を見た。
きみちゃんは閉店までに帰って来て、店に顔を出してくれるのではないかと期待して待っていた。
裏の厨房で作った夕飯を姉ちゃんに家に届けてと頼んだ時、店の電話が鳴った。
「もしもし哲?今夜のメシ、俺の分も作っちゃった?」
吉夜からだった。
「ごめん、急にうちの親達と食事行く事になってさ・・・帰ったら食べる。あ、それと、今夜のジョギングは多分間に合わないな。」
「それはいいけど・・・きみちゃんは、一緒?」
「ああ、そう。何か知らないけど振袖着せたら馬子にも衣装で、姉が”かわいい!”とかハリキッちゃってさ、今着せ替えゴッコ中。その後食事に連れてって・・・安心しろ。俺は今日飲まずに、哲の車で帰るから。」
“安心しろ”って、車を今日中に返すっていうところ?それとも、きみちゃんの・・・
胸がモヤモヤして、吐く時のように気持ち悪くなった。
「こっちは大丈夫だから、心配しないで、ごゆっくり。帰り道、気を付けて。」
「・・・なぁ、哲。」
「ん?」
「公子、相当落ち込んでるぞ。哲の一言を気にしてさ。いつもからかう俺と違って、哲の言葉の重みは違うんだからさ、わざとにしてもどうしてそれを言ったのかっていう説明はしてやれよ。」
「・・・そうだね。」
返事はしたけれど、きみちゃんにどうしてあんな風に言ったのか、説明をする気持ちにはなれない。
説明する位なら、それなら初めから言ってない。
「じゃ、今日中には帰るから。」
「気を付けて。」
電話を終え、吉夜の”今日中”という言葉が引っ掛かってしまった。
二人の仲は良くないように見えるけれど、悪い訳ではない。
何でも遠慮なく言える関係に嫉妬しているのかもしれない。
吉夜は”公子”と呼び、きみちゃんも”吉夜”と呼び捨てで呼ぶ。
僕は きみちゃんから”てっちゃん”と呼ばれ、”哲”と呼び捨てされた事はない。
呼び捨てにしてと頼むのも今更変だし、”てっちゃん”と呼ばれるのが嫌な訳ではないから、このままでいい―――
そして今日、きみちゃんは戻って来ない。吉夜と吉夜のご家族と一緒にお食事に行く。
吉夜と一緒なら、きみちゃんはもっと広い世界へ動いて行けるだろう。
僕の望んでいた事じゃないか。
哲は、寂しいと想う気持ちを心の奥に押し籠めて、一人で閉店前の片付けを淡々とこなした。
閉店後、残ったコーヒーをブラックで自棄酒(やけざけ)代わりに飲み、夕食の温野菜と海藻スープには手を付けなかった。
そして21時を待たず、自宅キッチンで家族の夕食の後片付けを終えた20時過ぎから、トレーニングウエアに着替えた哲は外に出た。
今夜は一人だ。
軽く準備運動を終えた哲は、店の前から公子の家の二階の部屋の窓を見上げた。
毎晩、僕と吉夜が走る時に見守っていてくれるきみちゃん。
僕が窓を見上げると、カーテンをサッと戻して隠れるから、こっそり応援してくれているつもりなんだろう。僕はきみちゃんに気付かないふりを続けている。
哲は公子が、慌ててカーテンに隠れる様子を思い出した。途端、笑いが込み上げた。
それから走り出し、いつも吉夜と二人で走るコースを三周して店の前に戻って来ると、店の駐車場からエンジン音が聞こえ、きみちゃんの家の一階の窓に赤いテールランプの色が映り込んでいるのが見えた。
帰って来た!
首に提げたフェイスタオルでこめかみを伝う汗を拭いながら、哲は店の入口付近から、駐車場の方へゆっくり走った。
すると、吉夜の声が聞こえて来た。
「あっぶね!何でそんなにフラフラしてる?」
「振袖の帯が重くて、腰と膝に来たみたい・・・それにハイヒールだし。」
そして目にした二人の姿に衝撃を受けて、声を掛けられなくなった。
ドレスアップしたきみちゃんと吉夜は寄り添い、本物の恋人同士、いや夫婦のようにも見えた。
「だらしねーな。」
「なによっ!誰のせいだと思ってんの?!」
「そーだな。そのセリフそっくり、後ろに居る奴にぶつけてやってくれ。」
「え・・・?」
きみちゃんが吉夜に体を抱きとめられたまま、首を動かし、顔を僕の方に向けた。
「て、っ・・・ちゃん。」
目を丸くして驚いたきみちゃんの顔は、吉夜と二人で過ごしていた広く煌びやかな時間から、狭くて地味な現実に引き戻されたお姫さまといった風に見えてしまった。
「きみちゃん、おかえり。吉夜もおつかれさま。」
「マジで疲れたよー。ほんとにやってられねーってカンジ。」
僕が見せる事の出来ない世界を、吉夜はきみちゃんに見せられるんだ。おとぎ話の魔法使いみたいに。
「きみちゃん、楽しかった?」
「え・・・?うん、楽しかったよ。貴重なお休みをありがとうございました。」吉夜に腕を掴まれたままのきみちゃんは、頭を下げようと動かした時にバランスを崩して、
「またフラフラしてる。ほら、帰って早く寝ろよ。」再び吉夜がきみちゃんの腰を支えた時、見事大きく作ったしゃぼん玉が、パチンと割れてしまったのを見た瞬間に似た気分を味わった。
「じゃあ、僕はこれで。二人とも、おやすみ。」
僕は、二人の前から逃げ出した。
玄関を入って鍵を閉めると、そのままお風呂場に向かった。
服を脱ぎ、頭から冷たいシャワーを浴びた。
今、とても嫌な顔をしていると思う。
“楽しかった”と笑った、華やかなきみちゃんの姿に、僕の胸の奥に隠してる想いを削られた。
吉夜がその屑を、なかったものとして捨ててくれる日が、近い内に来るかもしれないという予感がした。
哲はベッドに入ったものの眠れずに空腹を覚えた23時過ぎ、起き出して、キッチンへ向かった。
冷蔵庫を開け、無糖の炭酸水を飲んでいると、パジャマにカーディガンを羽織った溪がキッチンへ入って来た。
「姉ちゃん、どうしたの?眠れない?」
哲は溪の事も気がかりだった。今日一日、店にいた溪は溜め息ばかりついていた。
「哲、きみちゃんと仲直りした?」
今は聞かされたくない名前だった。
「元々、喧嘩してないよ。」
「明日、私、ハローワークに行っても大丈夫?」姉ちゃん、仕事探しに行くんだ。会社辞めて、遠くに行くつもりなのかな。
「勿論。今日は急遽手伝って貰って助かったけど、姉ちゃんは別にお店の事はしなくていいんだから。」
助かったとは言ったが、実は溪と公子では同じ時間にこなす仕事量もやり方も異なるので、哲はそれならば、忙しくない今は、接客を除けば一人で十分だと考えていた。
「きみちゃん、明日来てくれるって?」
「うん・・・だから大丈夫。」
明日、公子が来るという保証はないけれど、休む可能性は0に近い。
きみちゃんが今日休んだのは、僕が昨夜言った「関係ない」という一言が原因だと、吉夜に言われなくても自覚があった。
「哲は、頑張ってね。」
「え?」
「きみちゃんと。ふふ・・・私、早くきみちゃんに」
「きみちゃんに、何?」
「ううん、何でもない。とにかく頑張ってね、哲!」
「うん、頑張るけど・・・」
溪が”頑張ってね”と言ったのを、哲はダイエットの事だと思った。
溪が部屋に戻って行った後、キッチンで一人になった哲が肩の力を抜くと、溜め息の代わりにゲップが出た。
火曜日の朝、哲がいつもの時刻に店に行くと、公子が店の中を清掃していた。
口をへの字に結びながら、咳を我慢していた。
公子の頬がうっすら赤いのに気付いた哲が近付いて、手のひらで公子の額に触れると、とても熱かった。
「きみちゃん、熱がある!」
「あ・・・大丈夫。大した事ないの。ここ終わったから、裏でゴミバケツ洗って来るね。」
「そんなの、後で僕がやるからいいの!薬飲んだ?ああ、それともお医者さんに行く?車で行こう。」
「薬飲んだよ。お医者さんには行かなくても平気。熱もすぐ下がると思うから心配しないで。」
「ダメ。店は今日休む。だからきみちゃんもお休みして。」
「そんなの駄目。私はほんとに大丈夫。てっちゃん、お店を開けて。」
「わかった。きみちゃんを送ってから店開ける。」
そう言うと、哲は公子の体を両手で水平に抱き上げた。
「きゃっ!てっ、ちゃん・・・」
「僕に掴まってて。」
「うん・・・」
抱き上げたきみちゃんの体はやっぱり熱かった。
はぁはぁと吐く息も熱い上に、時折ゴホンゴホンと咳もしている。
「ごめんね、てっちゃん。」
「いいから、きみちゃんは家でゆっくり休んで治して。病院に行きたくなったら言ってね。」
お邪魔します、ときみちゃんの家に入り、きみちゃんのお母さんに簡単に説明してから、二階のきみちゃんの部屋のベッドの上にきみちゃんを下ろした。
「ありがとう、てっちゃん。」
公子は、座らされたベッドから立ち上がると、着けていたエプロンを外し、畳んで哲に差し出した。
「きみちゃんは無理しなくてもいいから。店は大丈夫だから。」
哲は公子の肩にポンと手を載せた。
「うん。」
哲はドキッとした。
熱に潤んだきみちゃんの瞳が僕を見つめた―――すごく色っぽく、大人に見える。
そして、ゆうべ見たドレスのような白いワンピースを纏った姿を思い出してしまって、悔しくなった。
吉夜にも見せたんだろうか。こんな表情。
きみちゃんが”かわいい”って家族に言われたと言っていた吉夜。
吉夜もきみちゃんの事をかわいいと思ったに違いない。
そうだよ、きみちゃんは本当に―――
ぐっ・・・
哲が公子の肩に載せた手に力を籠めそうになったその時、ガチャッとドアが開き、氷枕を手にした公子の母が部屋に入って来た。